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幽霊とわたしと無関心

過去を愚痴る。
未来を煩(おも)う。
今がない。
立つ足がない。
幽霊がここにいる。
      池田勇諦

昨日の予告通り「幽霊」ネタです。
幽霊の正体は「わたし」でしたって話です。

石川県の松任にあるお寺の幽霊の絵

スクリーンショット 2020-08-08 16.16.33

この絵をもとに、次のように池田勇諦さんは解説してくれてます。
(この絵のあるお寺のご住職のお話が素のようです)

幽霊の絵は、まず基本的に頭の髪を振り乱しています。これが第一条件です。次に必ず手を前に垂れ出しているということ。そして足がありません。これが何を意味しているか。この頭の髪を振り乱しているということは、過ぎ去った過去を追う姿だと。どうにもならんことを追っかけて愚痴る姿です。手を前に垂らしていることは、未来への計らいです。それこそ取り越し苦労でしょ。そして肝心の現在が無い。これが足が無い姿です。肝心の今立つところがない。現在がないというのを幽霊だと。(中略) 幽霊はいるのか、いないのかという騒ぎではないですね。わが身が幽霊の張本人としか言えませんよね(中略) 幽霊というのはわたしそのものだと。
(池田勇諦 著【『教行信証』に学ぶ(八)】より)

で、「わたし」のあり方が幽霊だということです。
以上、幽霊の話でした。

落ちがつかないかもしれないので
先に説明だけしておいて逃げに回りました😅

自宅の窓から
「としまえん」の花火が見える。
毎年この季節になると見るともなく見ていた。

窓を開けてぼ〜といると
ぱ〜ん、ぱぱ〜んと音が入ってくる。
で、外に目を向けると見える。

今年で最後の花火だ。

8月31日で「としまえん」は歴史の幕を閉じる。

たぶん、わたしの生活にはなんの支障もない。
子供の頃、中学生くらいまではちょくちょく遊びに行っていたが、最近では15年ほど前に花見をしにったくらいだ。
今の生活には関係がない。。。

思い出深さもさほどない。。。

でも、今年で最後だと思うと
ついつい見入ってしまっている。

本当に支障はないのだろうか。

自分の生活に直接関係ない
自分の仕事と関わりがない
だから、支障がない。。。

そんな考え方が
いまのなんとも言えない
無関心な、無責任な、無感動な生活を作り出しているのではないかな。

感傷的になる必要はないが
そこでひとつのなにかが終わると気づいたときに
そこなあった
笑顔、涙、怒り、汗、
そうしたものまでもが無くなってしまうのではないか!
そんな危惧を持つことは大事な気がする。

無感動、無関心は社会になんもいいことはない。

想像力の欠如は
自分の知らないところで涙を流している人に追い打ちをかけることに繋がる。

上の池田さんの言葉とは逆に思われるかもしれないな。
想像力とか言っていると。

自分では同じようなことを言っているつもり。

まいいや。

で、としまえんの閉園だけではなく
いま、多くのお店や会社が閉めたり畳んだりしなくてはならなくなっている。
社会に耐えれなくて命を経つ人もいる。
無関心を決め込めば楽なのだろうか?

「楽」。。。楽しいかってことだよね。

無関心で、無感動で、楽しく過ごせていけるかと自分に問うと、そんなツマラン生活はやっぱ嫌だなと思える。
それがまだ救いかな。

素直になろう。

やっぱ寂しいじゃん
そこにあった笑顔や涙や何やかやまでもなくなるって。

なにかが終わり
なにかが生まれる
それは自分にとって大問題なんだ。

で、今この時にも
どこかしらないところで
なにかが生まれ
なにかが終わりを遂げている。

それが地球の裏側のことであろうが
身近の虫や植物のことであろうが
無関係なことは一切ない。

そう考えると
自分自身のある場所というのもどえらい場所だということころに行き着く。

すべてつながっているのがここだし。

わたしのくしゃみ
それが宇宙的な一大事
わたしのおなら
それが宇宙的な一大事
わたしが空腹
それが宇宙的な一大事

無関心を装って
それが楽な生き方だなんて言うのはうやめておこう。

無関心なときは
とても寂しく孤独な地獄にいる。
関わりの心を消失しているのだから。

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