私の過去⑮~自分に許可・無条件の愛~
両親に、気軽に連絡したり、会いに行けたらいいのだろうに...と思う反面、
それまで長年、自分の生きる原動力になっていた感情、ずっと自分を支えていた感情が弱まる又はなくなるのでは...と怖く、会いに行けない...。
この相反した気持ち...
こんな心の奥にあった思いに気づいた瞬間は、
私、こんな気持ちがあったんだ...と驚きました。
そして、どうしてこんな気持ちが...、と、どうしたらいいんだろう...と思いました。
こんな無自覚だった感情が自分の中にあり、正直ショックと戸惑いを感じました。
そして落ち着いて、受け止めて、
戸惑いながら、この気持ちを抱えながら日々過ごしていってみようと思いました。
そしてその後も、私はやはりもう自分から積極的に、両親に会いに行こうとは思いませんでした。
過去の今までのすべてを水に流して、両親に会いに行けたら、もしかして1番いいのかもしれません。
でも、今現在まだ私は、そうする事が出来ずにいます。そうする事は、とても心に無理をしての行動になるからです。
2年半前に前職を退職するまで、私は敢えて仕事をたくさん抱え、自分を忙しくしていました。
やり甲斐のある仕事でした。
早朝から夜遅くまで仕事のニーズはありました。
ふとした時に頭に浮かんでくる両親や妹の事や、過去のいろいろな出来事を考えなくて済むように、仕事に打ち込んでいたと思います。
それが、限界が来てしまいました。
退職を決め、後任者に引き継ぎを終え、退職した直後、寝込み、何も出来なくなりました。今までのように頑張ろう、と思いましたが、頑張れなくなりました。
もう、...頑張れない、と思いました。
ひたすら眠り続け、少しずつ、動けるようになってから、それ以降、もう...頑張らなくていい...と、自分に許可を出しました。意識して、頑張らない。
それから今まで、心身に無理な力、無理なストレスが掛からないように、自分で気をつけて日々の生活を送っています。
両親に、会いに行けたらいいのだろうに、やはり今は...行く事が出来ません。...頑張れません。
もう...頑張らなくていい...と、...無理して頑張らない...と、自分で自分に言っています。
もう、今まで、長い間、苦しんできました。
長い時間、辛く生きづらい人生を歩んできました。
その事をそのまま認めようと思います。
私だけではなく、両親も、妹も、だと思います。
みんな、もう、いいじゃない...と思いました。
無理を、しない...。
私は、今は、自分自身がずっと長い時間、傷ついて悩んで苦しんで生きてきた事に、寄り添いたいです。
辛かったね...、本当に苦しかったよね...、
大変だったね...本当に。よく頑張って生きてきたじゃない...。そう自分自身に言ってあげたいです。
少し調べました。
私は、たぶん、愛着障害がある...と思います。
もしかしたら、ほかの発達障害を併せ持っているのかもしれません。
原因は、幼少期に親から受けた拒否、分離、虐待、不適切な養育経験、喪失など愛着に関する外傷経験、等のようです。
今後、治していくための受診や、自分自身が生きやすくなるためのよい方法が見つかれば、試してみるかもしれません。
でも、今は、その、愛着障害があるだろうという事も、生きづらさを感じる他の要因が私の中にあるならそれも、もう私自身の特性として、今のありのままの私でよいと、全部を受け入れようと思っています。
今の、ありのままの私で日々いる事を、何もかも許可しようと思いました。
自分自身を、無条件に愛してみようと思いました。
私は、両親から無条件に愛されたかったんだと思います。でも、残念ながら条件つきの愛情でした。
もしかしたら、両親は、同じような経験をして育っていたのかもしれない...と思います。
両親からはもらえなかった、無条件の愛を、私はまず自分自身に与えてみようと思いました。
今の自分は、きっとまだ、歪んだ認知もします。
無条件の愛、無償の愛、といっても、それも、それって...なんだろう...と、正直よくわからない...と思ったりします。手探り状態です。
唯一、私から子供への愛は無条件の愛だとわかります。でも、私へ向けられる無条件の愛とはどんなものなのか...わかりません。
もしも今、誰かから愛情を差し出されても、わからなくて受け取れない自分なのかもしれません。
でも、そんな自分でも、今は、自分で自分を認めてあげたい。大丈夫だよ...、大丈夫だよ...と。
それでいいと。どんな自分も全部ひっくるめて、それでいいから、大丈夫だよと、そう言って見守りたいと思います。
今は、自分が自分を気持ちいい、心地よいと思える状態にしてあげる事に努めてみようという気持ちです。
安心感、安らぎ、喜び、など...
今私は、今の仕事でその感覚を体験出来ているように思います。
自然の中で土を触り、野菜や果実に触れて、雨に濡れ、風を感じ、四季の空気の匂いを感じて、そういう心地よさを感じられていて、
この体感覚を継続していったら、もしかして、私の内面は少しずつ回復して、もう両親への悲しみや怒りを生きる原動力にしなくても、生きていけるようになるのではないかな...と思います。
そうなれた時、もしかしたら、両親と会う事が出来るのかもしれません。
私は私でいい。
私は私のままで生きていい。
本当に、本当の意味で、そう思えたなら、
その後ようやく
両親に会いに行けるのかもしれません。
ただ、今現在はもう、お互いに無理して会わなくても、双方がそれぞれ思いあっている、それでいいんじゃないか...と思います。
また近づいて、万が一にもまた傷つく、そんな事をもう試さなくてもいい...とも思ってしまいます。
過去のすべてを赦して、何もなかったように交流する事が愛なのでしょうか...
遠くから、そっと自然に思うだけでも愛なのではないでしょうか...
それでいいのではないでしょうか...
このまま離れた状態でも、それぞれが、心の奥にあるそれぞれへの愛情、
それが無条件の愛なのではないでしょうか...
それを静かに信じて生きる生き方もあるのでは...。
...これはエゴでしょうか...
会う、会わない関係なく、もうその愛情に気づいたから、これで、このままでいいのではないか... と思ったりしています。
それらを迷い確かめながらの、これからの日々かな...と思います。
そして、私は私、前を向いて、自分自身を精一杯愛する事で、そこから自然に、まわりにも穏やかで暖かな愛が広がって行く、まわりの人に少しでも優しく、そんなふうに過ごしたいと思っています。
宗教は、本来は悪いものではないかもしれません。
本来は、心を豊かに保ったり、人生をより良いほうへ導く、1つの指針になる良いものかもしれません。
何を信仰するか(信仰しないか)ということは個人個人の自由ですし、信じる物事があるから救われた人がたくさんいることも事実です。
でも、色々な理由から宗教教義に傾いて、のめり込み過ぎると、冷静さや現実味を失って、心身のバランスを崩して、いつしか現実を見る事は出来なくなって、本当の自分を見失い、自分自身でフラットに判断する事が出来なくなる...と体験しました。
自分の冷静な判断で決めていると思う事さえも、実は無意識下でコントロールされている。それが洗脳状態だと思いました。
そして、宗教を信仰する事や、宗教の教義は、自分個人にのみ、当てはめるという事が大切で、家族や子供を巻き込まない事。
押し付けたり、強制したりしない事が、本当に大事だと、私は思います。
⑯へ続きます
お読み頂き、ありがとうございました。
記事の内容はあくまで私自身が体験し、その体験から感じた主観です。
私の過去として、記事を書いてきましたが、今現在に重なりました。
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