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ファンタジーの素地

こんにちは。
今日は最近読んだ荻原規子さんの『グリフィンとお茶を』のお話を。

荻原規子さんの本との出会いは小学3年生か4年生の頃。
図書館の書棚にあった『薄紅天女』の装丁に惹かれて読み始めたことにはじまります。
この本にどっぷりハマり、荻原規子さんの本をほとんど読み尽くし(と言っても高校生になると海外文学の方に行ったのでその辺りからのRDGなんかは未読です。)大学の卒論のテーマに『空色勾玉』に出てくるあるお祭りを文化人類学の視点から論じてみたりしたわけですが(今思うと空想の域を出ないものでしたが)
最近になって『グリフィンとお茶を』を読む機会があり、昨晩読み終えたので早速考えをまとめようとここに書いております。

前置きが長くなりましたが、この『グリフィンとお茶を』は物語の中に登場する動物をテーマに、さまざまな動物(それこそ、架空の生き物まで)やさまざまな物語を引き合いに出しながら、荻原規子さんの根底にあるテーマ「ファンタジーとは何か」という問いを探っているエッセイです。
結論からいうと問いに対する答えはさまざまな人の考察を経ても荻原さんにとってしっくりくる回答は得られなかったという結論に至るわけですが、私にとってもこの「ファンタジーとは何か」という問いが、今ものすごくしっくりときてしまって、なるほどなるほどと腹落ちしていったわけです。

ぬいぐるみを作っていると、たくさんのぬいぐるみ好きな方と繋がっていくのですが、皆さん本当に楽しい方達で、ぬいぐるみと喋れる方もいますし、1体のぬいぐるみでとことん遊ぶスタイルの人も、たくさん集めてそれぞれにキャラクターをつけてという遊び方の人もいらっしゃって、そんなお話を伺うたびにとても興味深くって。
これは元々の私の癖のようなものですが、人が起こす現象を文化人類学や心理学の面から考察したくなってしまうので、この「ぬいぐるみに性格を見つける」という現象もぬいぐるみを作って売りつつ考えていたわけです。

そしてここにきて『グリフィンとお茶を』です。
この中で荻原さんは古今東西人間というものは動物(架空の生き物を含む)に人格を与えて人語を介して人間とコミュニケーションを取るという空想(ファンタジー)を連綿と続けていると論じているわけですが、ぬいぐるみという存在も物語や絵画にかかれてきたこの動物を介する空想の一部だなと。
そしてこれ、大昔の人間も行ってるし、東洋でも西洋でもその他の地域でも行われているんですよね、本当にプリミティブな行為なんだなと。

現代だと科学も発達してしまっているし、大人になったら空想をやめないとというような気持ちもやっぱりどこかには少しあって、ぬいぐるみを集めたりおもちゃで遊んだりなんてちょっと後ろ暗い気持ちになったりもするんですが、いやちょっと待てよと、これもう人間の習性なんだからと言われてしまうと、なんだかとっても肯定された気持ちになったわけです。

というわけで、『グリフィンとお茶を』を読んでなんだか盛大に肯定された気持ちになりつつ、この「ファンタジー」という要素は突き詰めて考えていくととても面白いぞという今後のテーマも頂いちゃって、要するにとてもおもしろかったよと言いたい。

私はこんな読み方をしたわけですが『グリフィンとお茶を』は児童文学やファンタジーに興味がある方には児童文学やファンタジーの歴史的な面も多少読み取れるし、作家の書影の背景にある本棚のタイトルを一つ一つチェックしたくなってしまう私のような人には荻原規子さんが実際に読んだ本がきちんと出典も明らかになって記載されているので本当におすすめできます。

ぜひ読んでみてくださいね。

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