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作品の面白さは読み手によって発見される話

○作者の意図したことを読み取る考察

作品の考察や批評が好きです。
自分で考えるのも、読むのも好きです。
特に文学作品や映画を考えながら観るようになってから、それまでよりも、より楽しめるようになりました。

そこには、
作者はこういう意図でこの描写を入れているのではないか?
このアイテムは誰かを象徴しているのではないか?
というような論が展開されています。

「チェーホフの銃」
劇作家であったチェーホフが残している考えを示す言葉です。
第一幕で銃が置かれていたなら、第二幕以降でその銃は必ず発砲されなければならない。
舞台の上に現れたものには必ず物語の上での意味を持たせなければならない、あるいは伏線は回収しなければならない、というような意味です。

作品と呼ばれるものに対する多くの批評や考察で語られることは、このチェーホフの銃の考え方に基づいたものが多いと思います。
常に何かは何かを象徴し、何かは何かに対立し、何かは後に別の意味を表すことになる。全てが物語のうえで意味を持つ。
そしてそういった意図が見えるものが多ければ多いとき、作品に登場する、より多くのものによって物語が作り込まれているとき、その作品は名作と呼ばれ、作り手は天才だと言われる。
そういった傾向にあるように思います。

私もこの考え方には賛同しています。
文豪や映画監督といった表現者たちがその全てを意図して作っていると思い、その物語を作り出す力にいつも感銘を受けているわけです。

しかし最近、作者が全てを意図、把握しているとは限らない、むしろ意図していない部分に意味が生じていることに面白さがあるのではないかということに思い至りました。

○作者が意図していなかった読みも間違いではない

先日、穂村弘さんと山田航さんによる『世界中が夕焼け』という本を読みました。
これは穂村弘さんの短歌を山田航さんが批評し、さらにそれを読んだ穂村さんがコメントをつけているという新たな形の歌集です。

私は穂村さんの短歌をきちんと読んだのは初めてでした。
短歌についての見識もほとんどない私ですが、山田さんの批評がついていることで「穂村弘の短歌とはどういうものか」というのを一冊で教えていただくことのできる本だったと思います。

(私がノートに書いた『世界中が夕焼け』のまとめ)

さて、この本で特に面白かったのは、山田さんの批評に対する穂村さんのコメントで、「僕は違うイメージでしたね」「ここはなるほどと思いました、そういう気持ちもあったかもしれません」というような言葉があった点です。
これは批評の読み違いを指摘していると言ってもいい部分ですが、穂村さんの語り口からはそういった厳しいような印象は全く受けません。むしろ、山田さんの読みを一読者として面白がって読んでいます。

これを読んでいて、私は作者自身が作品の中身を全て意図しているわけではないのだなというふうに思ったわけです。
彼自身にも予想外の読みがあったり、彼の自覚していなかった深層心理を明らかにしている読みがあったりしているということがわかるからです。

穂村さん自身も指摘していることですが、作者本人が作品の解説を書くというのは得てしてつまらなくなりがちだと思います。しかしこの本では山田さんの批評を挟むことで、穂村さん本人によるコメントがより面白いものになっているのです。
さらに、山田さんの批評が微に入り細に入り丁寧な短歌の解説になっているのと対照的に、穂村さんのコメントにはある種の軽さがあります。その歌を詠んだときのエピソードに不意に話が飛んだり、文体も所どころに「どうだったかなぁ」というような口語体が混ざっていたりするのです。

当たり前のことに回帰するようですが、表現者は作品にその全てを示しています。自分で解説することで全てを言い表すことができるなら最初から作品など作らずに解説を書けばいい。
そして同時に、生み出された作品はその瞬間から作者の手を離れ、読み手にその意味を委ねられています。
だからこそ、穂村さんのコメントには軽さがある。解釈を読者側に委ねているから間違いだと指摘する厳しさはなく、自身で詳細な解説もしないのです。

○意図せずして現れた部分にこそ面白さがある

こんなふうに、作品の中身はすべてが作者の意図のもとに作られているわけではないのではないでしょうか。もちろん、想定されて作り込まれた部分がとても多いとは思いますが。
それでも、その解釈は読み手、受け取り手に委ねられています。
だから批評や考察に正解はないのだと思います。単に「当たっている/当たっていない」で判断されるべきものではないと、私は思います。

さらに言えば、作者が想定せずに偶然生まれた意味、受け取り手によってはじめて見出された意味の部分こそ作品の最も面白い部分なのではないかと思うのです。
そこにこそ作者が本当に表現したかったものがあるのかもしれないと思えるのです。
それは他の部分を徹底的に作り込んでいくことで生まれるものだと思います。
そして、それがより多く現れる作品こそが名作であり、天才と言われる人々の作品なのではないかと思います。

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