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東京のサラリーマンが米農家に!?(前編)

はじめまして、「パフじろう」こと井上敬二朗と申します。(1979生)

東京生まれ、兵庫県育ち。お米専門ブランド【稲作本店】の代表です。
お米農家の(株)FARM1739(イナサク)の後継ぎ兼、お米関連製品の製造・販売をする会社、TINTS(株)の代表取締役をしています。

今日は、東京の普通のサラリーマンをしていた僕が、なぜ米農家になったのか、そして【稲作本店】立ち上げへの想いなどをお話してみたいと思います。

普通のサラリーマン時代

僕は、22歳で東京の大学を出ました。当時2001年頃は、今のように社会への意識が高い時代ではありませんでした。普通に就職活動をして、大手証券会社に入り3年間営業を経験。兵隊のような毎日で、営業成績は中の上くらい(まぁ普通)。

営業していても知識不足で、自分に限界を感じ、もう一回勉強をしようと思って会社を辞め経営学の大学院へ。でも講義が面白くなく、政治家や環境エネルギーNPOのインターンばかりしていました。その後、そのままそのNPOに就職しようと思っていましたが、親の大反対に会い断念。こうして監査法人に入り、大企業のコンサルティングを30歳まで。

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と、いわゆるフツーな人生を歩んでいたわけです。
収入も問題なく、会社でも「それなり」に仕事をし、趣味のカメラやアート散策、読書などを楽しんでいました。

「このまま素敵な奥さんを見つけて、マンションを買って、退職するまでここにいるって??」いやいや、ちょっと待った!!

正直、仕事に夢中になったり、アツい想いを全く持てませんでした。
一体「自分は誰の何に役立っているんだろう?」毎日電車に揺られ、終電までPCに向かい、これ何をやっているんだろう?」という疑念が。

田舎で活躍する先輩が輝いて見えた

その当時(2009年。東日本大震災の前で今ほど移住が当たり前の時代じゃなかった)、僕の大学院時代の先輩が、岡山で環境エネルギーのまちづくりをする小さな4人の会社に勤めていました。そこでは農業・林業と自然エネルギーをミックスさせていく仕事が行われていて、週末にはお米や野菜をつくる先輩の姿がミクシィ(当時のSNS)でバンバン投稿されていたわけです。

なんだかキラッキラに見えて、自分もそういう「つくり出していくような仕事」に関わりたいと真剣に思うようになったのでした。

実際に岡山へ移住

こうして、田舎への憧れが高まってくる中で、その先輩から

「東京はもうええんちゃうか?そろそろ田舎で一緒に盛り上げていこうぜ」

という誘いが。収入は半減するけど、他にはない選択肢。当時付き合っていた今の嫁さん(パフまりこ)と話をして、「うーん、悩むよなぁ」と言いながらも「えいっ行ってしまおう!」と、結婚と同時に岡山へ移住を決意したのでした。しかし若かったなぁ。


当然、自分の親も嫁さんの両親にも大反対されましたが、僕たちの人生。30歳になったばかりでしたが、一つの家庭をもっていく立場として、自分の意思で押し切ったのでした。

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ところが、、、話はうまくいかず

こうして、岡山の小さな会社へ移ってみたのですが、、これが全く都会で見えていた姿とは違っていた。。(汗)

転職した小さな会社では「補助金・助成金」頼みで、お客様から直接仕事の対価をもらえていない状態だったのです。「補助金」目当ての仕事を組み立てていくスタイルが打破できず、社長に新しい案を提案しても却下される。そして、残業は深夜まで続く。。というブラックな環境。

正直、給料が低くなっただけで、PCに向き合う仕事のまま。これには愕然としました。さらに、僕を誘った先輩が半年で退社するという。。。

これは本当に最悪な状況。「どうしよう今後。。やっぱ東京にいた方が良かったのでは」という絶望的な気分になってしまいました。

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さらに、2011年には震災があり、その後、僕の兄が急逝するという、もう正直、生きていること自体が辛くて辛くてたまらない時期がありました。先輩が会社を辞めてからも、しばらく残りましたが、どうにか営業体制を整えるところまで注力して、会社を辞めました。「もう、一度全てをリセットしたい」ここで人生初のプー太郎になったわけです。

田舎での生活は捨てきれなかった〜有機農とカフェ開業

そのとき、嫁さんとじっくり話合いました。

でもこの時は、また東京に戻って仕事をする気にはなりませんでした。仕事はともかく、岡山での田舎生活自体は気に入っていたのです。娘が生まれたばかりというタイミングもあり「自然環境に恵まれた里山の生活の中で、子育てをしながら生きていけたら」という想いだけは強くあり、ここに残って「自分たちがやってみたかったことをやろう」と決めたのです。

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失敗してもいいから、悔いのないように。
これは兄の死や震災から学んだことです。

当時、
嫁さんは「農業がしたい」(農家出身で農学部だったから)
僕は「カフェがしたい」(カフェと音楽が大好きだったから)
と考えていました。こうしてそれぞれが好きな仕事を一緒に2人でしていくことになりました。

な〜んにもないど田舎で、「農業とカフェを融合させた場所」をつくることに目標を定めたのです。2012年頃の話です。

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そして、自分たちのカフェと、有機野菜をつくる畑をはじめることになったのでした。そこからまた、いろんな苦難が待ち構えるわけですけれども。今日はこの辺で。

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つづきは(中編)へ


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