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映画『三度目の殺人』に真犯人考察は必要か?


公開中の映画『ベイビー・ブローカー』が話題となっている是枝裕和監督のオリジナル脚本映画に、2017年に公開された『三度目の殺人』があります。

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映画『三度目の殺人』公式ホームページ画像より引用


個人的に是枝監督作品がとても好きなので、新作公開を機に改めてこの作品について振り返っていたのですが、レビューサイトで「真犯人がわからずモヤモヤする」という意見が複数上がっているのを目にしました。

調べてみると、さまざまな角度から真犯人を考察し(時に深読みし)ているブログもいくつか検索上位に上がってきたので、同じように感じている人は少なくないようです。

いわゆるミステリー・サスペンス映画として『三度目の殺人』を観るのであれば、真犯人がはっきりしないまま結末を迎えるなんて、確かにモヤモヤするのも仕方がない気がします。

ただ、この作品において「真犯人が誰であるか?」は果たして必要な考察なのでしょうか。私にはむしろ、終に「真犯人が明らかになることがなかった」ということ自体が重要なのではないかと思っています。


「三度目」の意味

タイトルの通り、この作品では三度の殺人が描写されています。

何をもって数えるかによっていろいろな解釈があると思いますが、私は登場人物たちが頬に付いた返り血を拭う、あの三度だと考えています。

一度目は、発端となる殺人事件の犯人だと思われる三隅(役所広司)によって。二度目は、生前の被害者を殺してほしいと強く願った咲江(広瀬すず)の心の中で。そして三度目は、真実が明らかにならないまま三隅に対して死刑判決を下した司法と、その一端を担った重盛(福山雅治)によって。

三隅はなぜ殺人を犯したのか?そもそも本当に三隅が殺したのか?

周囲の人間が「そう思いたい」動機を三隅という器に背負わせているだけで、彼は犯人ではないのかもしれない。いや、やはり犯人なのかもしれない。弁護士である重盛は次々と主張を変える三隅に翻弄され、真実が知りたいと強く思うようになります。

しかし、司法の場では終に真実が追求されることはないまま、三隅に死刑という裁きが下されます。


果たしてこれは裁きなのか。
殺人なのではないか。


頬に付いた見えない返り血を拭う重盛は、一体どちらだったのでしょうか。


真犯人が明らかにならないことの重要性


是枝監督はこの作品を通して「果たして人は人を裁けるのか」という問いに挑んだとインタビューで語っています。

法廷は「真実を追求する場」ではなく、あくまで関係者の「利害を調整する場」。事前に決まった流れに沿って調整を行なっている。

三隅の主張は真実かもしれないし、まったくもって真実でないのかもしれません。裁かれるべきなのかもしれないし、罪はないのかもしれない。
はっきりしているものはただ一つ、「真実」などというものは法廷という場において意味を持たないということです。

そんな司法というシステムの中で、人が人を裁いている。真実が明らかされることなく、三隅には死刑という「裁き」が下されました。

必ず真実に基づいて裁かれているはずだ、そうであってほしいという私たちの思いとは裏腹に、日々行われている調整という裁きのプロセス。

真実はどこにもない。意味も、ない。


私には「真犯人が最後まで明らかにならなかった」ということ自体が、この作品にとって重要な意味を持っている気がしてなりません。



作中、三隅が裁判官について「人の命を自由にできる」と表現するシーンがあります。何てことを言うのだと苦々しく思います。そんな訳がないからです。しかし映画を見終えたとき、その台詞が妙に頭にこびりついていました。




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