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【短編小説】卵を売る老人

 ある日の夜、仕事帰りのこと。路上に1人の老人が座り込んでいた。遠目でもわかる、小汚いなんだか怪しい老人だった。老人の背後には木で作った看板が置いてある。そこにはこう書いてあった。
「卵を売っています 1個100円」
1個100円…?やけに高いな、そんなことを思いながら視線を下にずらすと、老人のすぐ脇には籠が置いてあり、そこにはたくさんの卵が入っていた。よく見ると、卵のひとつひとつに何かが描いてある。あぐらをかいた老人は、ペンで卵ひとつひとつに何かを書いていた。近づいてみると、卵に描いてあるのは人間の顔のようなものだった。
 老人と目が合う。なんだか気まずくなり老人から目を逸らそうとすると、老人が声をかけてきた。
「そこの若い人、卵買っていかんかね?」
無造作に伸びたヒゲが怪しい老人だったが、優しい声をしていた。
 私は問いかけた。
「なんで顔なんか描いているんですか?」
老人が答える。
「あぁ、これかい。卵ってひとつひとつに命が宿っているものだろう?しかし卵は安く買えるし、たくさんの料理に使われている。命を頂いているということを私たちは軽んじすぎていると思わないかい?」
老人は少し悲しそうな顔で話を続けた。
「きっと本来この世に生を享けるはずだった雛の中にも、心やさしい者。ひょうきんな者。臆病な者。正義感の強い者。1匹1匹、いろいろな個性があったはずじゃ。」
よくみると、卵に書かれた顔は、にっこりと笑っているもの、泣いているもの、怒っているもの、安らかな顔で眠っているもの、たくさんの種類があった。
「この卵からはきっとこんな子が生まれたんじゃないか、それをひとつひとつ想像して顔を描いているんだよ。そしてこの卵を売る、買ってくれた人が食べる時に、卵の命の重さをしっかり噛み締めて、食べ物への感謝を忘れないようにしてくれればと思ってな。」
なるほど…。そんな狙いがあったのか。老人は続けた。
「1個100円という値段じゃからな、あまり買って行ってくれる人はいないが、ワシの話を聞いて卵を買ってくれた人は『大切に食べます』と、優しい顔で言ってくれるんじゃよ。それが嬉しくてな。はっはっは。」
老人は満面の笑みでそう言った。私はあることが気になり、こう尋ねた。
「お爺さんはもともと、卵や鶏にゆかりがあったんですか?養鶏場で働いていたとか。」
老人は答える。
「いや、そういうわけではないんじゃが…。」
続けて尋ねた。
「ではどうして、卵にそこまでの思いを込めてここまでのことをされているんでしょうか。」

 その瞬間、老人の顔がこわばった。すると突然、左手に握っていた、にっこりと笑った顔の描かれた卵を握り潰した。バリっという音が鳴り、老人の掌に黄身と白身が溢れ出し地面にボタボタと落ちていった。
「むかし、私の娘が、生卵を食べて食中毒で死んでしまったんじゃ。私の娘は、こんなちっぽけな卵なんかに人生を奪われた。」
「え…?」
「この憎たらしい卵に魂を吹き込む。この空に羽ばたいていくことが夢だった卵たちは無念にも自分を買って行った人たちに割られ、焼かれ煮られ食べられていく。ざまあみろ…」
そう言って天を見上げる老人の顔は、狂気に満ち溢れていた。

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