作文の宿題に思うこと

小5長女と小6長男には、週末、作文の宿題が出る。頻度は担任の先生によって違うみたいで、長女は毎週、長男は月1回程度だ。ちなみに、小1次男はまだ。作文の宿題は中学年くらいだったと記憶している。

作文…つまりエッセイ。週末なので、ほぼ週末にあったことを書くことになる。コロナ禍でほとんど外出しなくなり、同じような週末を繰り返しているので「書くことない」「何書こう?」と、子供に聞かれることも最近は多い。

「特別なところに出かけなくても、普段のいつもの生活の中で、感じたことを書けばいいんやで」と、私は毎回言うのだけど、それだと書きにくいらしい。

子供にとっては

「遊園地に行きました。とても楽しかったです」が定型なのだろう。「楽しかった」「おもしろかった」「また行きたい」あたりが頻出かな?

振り返ってみると、学校というのは、読書感想文や人権作文、環境作文、将来の夢、2分の1成人式…といろいろ作文を書かせるけれど、書き方については、特に教えていないように感じる。さらに、書き方だけではなく、読み方についても。

国語の授業参観にいくと、先生からの問いはたいてい「この時、〇〇はどう思ったでしょう?」という類のもので、子供たちからの答えは「楽しかった」「悲しかった」「嬉しかった」「さみしかった」という、よくある気持ちを並べたものばかりだ。

私は国語教師でも作家でもなんでもないので、こういう小学校の国語の授業については、「つまらへんなぁ」というのが感想で、特段それ以上のことは考えてこなかった。

しかし、小4から長男が中学受験の勉強をはじめ、国語の長文読解に一緒に取り組むようになってからは、「これはあかんやろ」と思うようになった。

中学受験の国語の長文読解では、「なんとなく」で解いていたら誤答してしまうし、たとえ物語文であったとしても、自分の感想ではなく、問題文を根拠にした回答でなければ、どんなに立派なことを書いていも×になる。自分の感想と、問題文を根拠にした問題作成者が求める正解と、切り分けて考える必要があるのだ。小学校の国語の授業はこのへんがごっちゃになっているように思える。

さらに、中学受験の国語の問題文には、ふだん聞きなれないような語彙や言い回しがしょっちゅう出てくる。「楽しい」「嬉しい」「悲しい」で答えられるような問題は、小6ではほぼ出ないのではないだろうか。

とはいえ、小学生が全員、中学受験レベルの国語の問題を解けるようになる必要はない。しかしそれでも、ただ感想を言い合うだけの授業では、身につく国語力(読解力)はそれほど期待できるものではないだろう。

話を戻すと、作文の書き方も同様で、夏休みに読書感想文の宿題が出されるけれど、書き方については一切授業で習わずに「読書感想文の書き方」という小さい字がびっしり書かれた紙を1枚、原稿用紙と一緒にもらってくるだけだ。このプリントを読む生徒がどれくらいいるのだろうかと思うし、読んだとして、読んだだけで書けるようになるだろうか?

なんだか学校の悪口ばかりになってしまって恐縮だ。学校にもいろいろ事情はあるのだろう。私が見えているのは、ほんの一部分だけだから。

ところで私は国語の授業は退屈だったけれど、作文は得意だった。具体的には、先生やコンクールに選ばれるような文章を書くのが得意だったのだ。環境問題をテーマにした作文、人権作文、読書感想文、そういった類は、大体こういうことを書けばいい、こういうことが求められているということが、なんとなくわかる。それにそって書けば、選ばれることが多かった。

ただし、こういう作文には心がない。書いていてつまらなかった。算数の問題を解くのと一緒だ。

大人になり、SNSでブログを書くようになってはじめて、自由に書くことの楽しさを知った。何のテーマも、選ぶ人もいない、ただ思ったことを好きに書く。なんて楽しいのだろう。

学生の時は、学校という枠の中で、大人の目線を気にしながら文章を書いていた。あれは、一定の条件と制約のもとで、求められる文章を書くという訓練だったのだろうか。そう割り切れば、あの経験があったからこそ、今、自由に文章を書く楽しさを実感できているともいえる。

まぁ、いずれにしても、学校は100%ではないし、理不尽な部分もある。得られることと、得られないことがある。自分の求めることが、学校で得られないことのカテゴリーに不幸にも入ってしまっていたら、あとは自分で対策するしかないだろう。

せめて作文・文章の書き方は、学校で得られるカテゴリーに入れてくれないものだろうか?毎週末「何書けばいいのー?」と聞かれるのは、けっこうつらいもんです。


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