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臍(へそ)が茶を沸かす
つい先日、いつものように、トイレにある「日めくり故事・ことわざカレンダー」をペロッとめくったときのこと。
そこで一瞬「?」となった。なぜなら、こう書いてあったから。
「臍(へそ)が茶を沸かす」
臍「が」だったっけ?臍「で」じゃなかったかなぁ?
「が」だったら、臍が主語になっちゃって変な気がする。
でも、まさかカレンダーが間違えるかな?
なんてうっすらモヤモヤしつつ、数時間を過ごし、再びトイレに行くと、「臍が茶を沸かす」という大きな文字の横に、「臍で茶を沸かすでもよい」と小さく書いてあった。
なぁんだ、なるほどね。どっちでもいいんかー。
そうだと知ってスッキリした後、私は思い出した。
普段、中学受験の勉強をしている長男に、自分がよく言っている言葉、
「問題文をよく読むんやで」
さらに、
「分からへんこととか、うろ覚えであいまいなことは、調べるんやで」
私、長男に普段言っていること、自分が全然できてへんやん…。
そう、そうなのだ、私はもともとうっかりミスが多く、面倒くさがり。
豚のひき肉と合いびき肉を間違えることはしょっちゅうだし、同じ本を2回買ったりするし、隣の人のお茶を飲んだりするし、なぜか背中にごはんつぶがついていたりするし、間違えて男子トイレに入って出てから気づくこともあるし、服を裏表間違えて着て、それに気づいても、そのまま着続けることもあるし…(永遠に続きそうなので中断)
考えてみれば、長男に注意する資格なんて私には全然ない。いや、むしろ最近は子供に注意されてるほうが多いかも。
受験という重要なシーンは別だけど、それをのぞけば、うっかりミスが多くても、面倒くさがりでも、それなに生きてけるものだ。
とりあえず、私はアラフォーの今まで、死ぬほどの危険には合わずにそこそこ平穏に生きている。どのレベルまで、自分のダメなところを正していくべきかは、それぞれの人生の中で、失敗を繰り返しながら、各自で決めていくのだろうな。
最近はよくそう思う。
子供が小さかった頃は、もっと「こうしなきゃ」というものが強かった気がするが、年を重ねて、いい具合に力が抜けてきた気もする。子供達に注意するということもぐっと少なくなった。
結局のところ、自分のダメなところは、その本人が気づいてなおそうとしなければなおらないのだ。さらに、そもそもなおすべきかどうかも本人が決めることだろう。
中学受験で合格を目指し、どこまで子供が自分の弱点と向き合っていくのかも、子供が決めていくことだ。もちろん、サポートはするけれど。本人が望まないものを押し付けることはできないし。
そんなわけで、私の頭に「臍が茶を沸かす」でも「臍で茶を沸かす」でもどっちでもいいということは、強く印象に残った。「どっちでもいいねんて!!」とスッキリついでに私が家族に言ってまわったので、家族のみんなの頭にも強く残ったことだろう。この手のちょっと笑っちゃうことわざって、あんまり受験にでなさそうだけど…(でも、そういうのほど記憶に残るんだよね)
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