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【小説】大桟橋に吹く風 #2 怪しい小瓶

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#2  怪しい小瓶

船がソ連のナホトカ港に到着したのは、大桟橋から船に乗ってから3日目の夕方だった。

この日本海に面したナホトカの街には、日本国総領事館があった。もともと、このナホトカにあったわけではない。引越してきたのだ。

このナホトカから北東へ約100㎞ほど離れた場所に、ウラジオストックという軍港都市がある。

ウラジオストックは日本海に向かって突き出た半島の先端に位置し、男がソ連にやって来たこの時期は閉鎖都市と化していた。外国人はむろん、ソ連でも他の地域に住む国民は立ち入りが禁止されていたほどだ。

この頃のウラジオストックは、そこで何が行われているのかよく知り得ない不気味な軍港だった。東方の覇者、東方を征する拠点という意味を持つこの都市は、ソ連が崩壊する1991年まで闇に包まれていた。

こういう事情もあり、このナホトカ港がウラジオストックの代役を務めていたのだ。そして、シベリア鉄道の始発駅としても機能を果たしていた。

ナホトカ港に船が接岸してまもなくすると、軍服を着たソ連兵と入国審査官たちが乗船してきた。特等室から順番に荷物検査が始まる。

(別にやましい物は持ってない。大丈夫やろう)

男は、旅の荷物を必要最低限にしてきたつもりだ。

ようやく、2人の入国審査官が男のいる2等キャビンに入ってきた。1人は恰幅のいいベテラン風、もう1人はまだ若くて部下のように見える。

さっそく荷物検査が始まった。

男の荷物を一つ一つ入念に調べていたベテラン風の審査官が、ある小瓶を手に持つと怪訝な顔をしながら言った。

「これは何だ?」

ロシア語で聞かれて戸惑ったが、こう言ってるのだろうと推測しながら男は身振り手振りを使って答えた。

男は、少し痛そうな表情をしながら自分の腹を指差して説明した。

「それは腹痛や下痢をした時に飲む薬」

ベテラン風の審査官は理解できず、さらに小瓶をまじまじと眺め始めた。

瓶のラベルにラッパのイラストが描かれている。蓋を開けると、黒くて小さな丸い粒がたくさん入っていた。興味本位で鼻先に小瓶を近づけた瞬間、今まで嗅いだことがない刺激臭が審査官を襲った。

「ぐぇっ!なんだこの臭い!いったい何なんだこれは!?」

ラッパといい、強烈な臭いといい、丸い黒色の粒といい、それら全ての要素がよりいっそう怪しさを増大させた。

2人の審査官は、ラベルに書かれている漢字も気になったらしい。縦に三文字の漢字が書いてある。若い審査官が漢字を見るときの表情や態度が、男にとってやけに鼻についた。どこか見下げている。

「これはどういう意味だ?なんて書いてる?」

ベテラン風の審査官は、指をさしながら男に聞いてきた。男は日本語でゆっくり言った。

「セイロガン、セイロガン。それは薬の名前」

すると若い審査官は、日本語で受け答えする男の様子を見ながら、あからさまに小馬鹿にしたような表情でクスクスと笑い始めた。

小瓶には、漢字で「正露丸(せいろがん)」と書かれている。

この男がソ連にやってくる半世紀以上も昔、ちょうど日露戦争が勃発した年には「征露丸」と書かれていた。当時の日本軍は、陸海軍兵士たちにこの「征露丸」を持たせた。それは「ロシアを征する」という意味を含んでいたが、昭和24年に「征する」という意味がよくないということで表記を変えた。この時はすでに「正露丸」という表記に変わっている。

もちろんこの時、この小瓶の歴史など男も審査官たちも知らない。

それより、クスクスと笑ったその若い審査官の態度に、男はついに怒りが込み上げた。明らかに外国人旅行者を見下すような態度が許せなかった。

男は笑われた瞬間、すでに若い審査官に向かって言い放っていた。

「オイ、ワレぇ、何がおかしいんじゃ!」

男は、摂津・河内・和泉に分かれる大阪の中でも、河内の言葉を”使った”。

表情や笑い方は、言葉が通じ合わぬ人間同士にも伝わるものだ。むしろ言葉が通じ合わぬからこそ、そうした態度は明るみになる。

どうやら世界には少なからず、こういう輩がいるらしい。異国からやって来た一人の人間に対して、自分の国の方が文化も発展し、優秀であり、指導的な立場なのだと勘違いしている輩だ。

こういう輩ほど、国家的権威や社会的地位を自分の味方に付けているのが透けて見える。

男はこの時まだ学生だったが、こういう人間にはなりたくないと思った。

じつは男は大阪生まれでも、河内ではない。摂津の生まれである。

あれはトラックの運転手をしていた頃。

山口県内を走っていた夕食時、サービスエリアの食堂に入った。店内はかなり混雑していたが、一席空いている場所を見つけた。ただ、相席になる。

その席にはスキンヘッドにタオルを巻き付け、恰幅のいい強面のオッサンが蕎麦をすすっていた。

男はうどんを載せたおぼんを持ちながら、その強面のオッサンに声を掛けた。

「ここ、ええですか?」

「おぅ!座れ!座れ!」

はきはきとした、威勢のいい返事だった。

男は、その「座れ!座れ!」という言葉の訛りから、すぐに関西の人だとわかった。

しばらく対面しながらうどんをすすっていると、突然オッサンが言った。

「ワレぇ~ひとりか? どこから来たんや?」

「僕は大阪からです」

「おぉー!ワレ大阪かぁ~!!ほなワシと一緒やんけ!大阪のどこや?」

「摂津です」

「おぉー!ワレ摂津か!ワシは河内や!」

男は心の中でこう思った。

(やっぱりそうか...それにしても強烈やな)

オッサンの声は食堂中に響き渡っていた。周囲に居た誰もが思っただろう。

(あーあ、あの若い兄ちゃん怖い人に絡まれてかわいそうに...)

だが、男は高揚していた。これぞ河内のオッサンという人間に出会えたからだ。確かに綺麗な言葉とは言い難いが、その方言から男らしさ、人間らしさを感じるのだ。

同じ大阪とはいえ、男が河内弁を話すことはない。それだけに、男にとって河内弁に”親しみ”を覚えた瞬間だった。

「ほな、ワシは先いくど!兄ぃちゃんも気いつけて運転せぇよ」

河内のオッサンは、最後にそう言い残して去って行った。

男は、その河内弁で審査官に怒りをぶつけたのだ。

河内弁を浴びせられた若い審査官は、一瞬ピタッと動きが止まった。

(おっ、効いたか)

その直後、若い審査官は少し怪訝な表情をしていたが、果たして効き目があったのかどうかは男もよくわからなかった。それでも別に構わなかった。男は、自分の信念に従って思いをぶつけただけだ。

それ以降、その若い審査官はすっかり大人しくなっていた。

(まさか正露丸でこんな目に遭うとは...)

ようやく男はソ連への入国が許可され、下船した。

ただ、正露丸は没収されてしまった。

*** (#3につづく) ***

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。小説は土日に連載投稿予定です。よろしくお願いします。

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