【小説】大桟橋に吹く風 #7 初出勤の日

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#7 初出勤の日

男がオペラ通り沿いの「Restaurant -愛-」に飛び込んだ日から3日後。

その日は、朝から青空が広がっていた。時折、春の訪れを感じる清々しい風が街中を通り抜けた。

日本食レストラン「Restaurant -愛-」は、オペラ通りに開店してちょうど2年半。パリの街が色めく春の観光シーズンを前に、店は順調に認知され団体の観光客や著名人なども来店するようになった一方、人手は足りていなかった。

「Restaurant -愛-」で働いていたその女は、出勤する前に店の近くのパン屋と食料雑貨店へ買い物に行くことが日課だった。

右手には茶色い薄い紙でくるまれたフランスパン。後ろから女を見ると肩越しに2本のフランスパンがひょっこり飛び出しているようだ。左手には卵や牛乳が入った袋を抱えていて、まるで荷物が歩いているかのようにしてレストランにやって来る。

女は出勤した直後から忙しい。スタッフたちの朝食の準備をするのだ。もちろん、一人だけでは全部できないから同期の仲間と一緒にやる。

この日、たった一つの出来事を除けばいつもと変わらない朝だった。

女が店内へ入ると、薄暗い厨房の傍で一人の男がぽつんと立っていた。女が思い出すまでにさほど時間はかからなかった。

(あっ、あの時の人だ)

3日前、女はその男を一度見かけていた。

✳︎

ランチタイムが終わって一息した頃、この男が店に入ってきた。

自分と同じくらいの年頃だが、女には長髪と髭面のせいで男が”浮浪者”のように見えた。他のスタッフが入り口で男の対応をすると、休憩室にいたオーナーに引き継いだ。

男はヨーロッパを1人で旅行していたが金が無くなりそうなので、ここで働かせてもらえないか、とオーナーに懇願した。

男は運が良かった。これから観光シーズンでちょうど忙しくなる時期だったのだ。しかも、男は日本人である。働くスタッフの多くが日本人だったこともあり、オーナーは即決してくれたのだ。ただし、その時に冗談半分で一つだけ言われた。

「その長い髪や髭は、もう少し清潔にしないとね」

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厨房の傍に立っていたのはその男だった。だが、見かけはもう”浮浪者”ではなくなっていた。髪も少し短くなり、髭も剃って爽やかなになっていた。

(この前よりましになっているわ)

女は誰にでも愛想よく声をかける性格だったので、男にもいつものように元気よく挨拶をした。

「おはようございます!」

「おはようございます」

男は女を見ると会釈をしながら、特に明るくもない声で挨拶を交わした。

男が女と挨拶を交わしたその一瞬ともいえる時間に、男はこう思った。

(感じのいい人やな)

何より、声が良かった。

誰でも初出勤の日は緊張するものだが、そんな緊張感を和らげてくれるような優しい声だった。

「Restaurant -愛-」は、奥に長い間取りをしている。

1階ホールスペースの入口窓側には2人用対面テーブルが3席、中央には正方形のテーブルに最大9人が囲むように座れる。正方形のテーブルの真ん中には、ミモザの花が添えられた漆塗りの花器が置かれていた。

1名客の場合、この中央の席に案内する。壁側には4人掛けテーブルが2席、長い廊下を真っすぐ進むと右手に厨房と休憩室があり、突き当たりには接待用の個室が一つある。

さらには地下がある。地下には宴会場が設けられ、6畳の和室がL字型に3部屋連なっていて団体客向けに使っている。

開店準備が一通り終わった後、働いているスタッフ一同がホールに集まって男を出迎えてくれた。男はみんなの前で挨拶をした。

「今日からお世話になります。どうぞよろしくお願いします!」

男は頭を深々と下げ終わった後、対面する列の一番端の女とふと目が合ってしまった。彼女の名前は、京子といった。さっき挨拶をしてくれたのも彼女だ。

厨房の傍ではあまり表情がよく見えなかったが、今度ははっきり見えた。少し笑っている。美人だが、単純に顔立ちが整った美人というわけではなく、また色気が漂う美人というわけでもない。

少し小柄で、色白だった。髪はちょうど肩にかかるくらいまで伸び、毛先が軽くウェーブしている。その柔らかい表情から優しさが溢れている。男にとって、それが京子から感じた最大の魅力に思えた。

男は京子と目が合うと、改めて挨拶を交わした。その時、男にとんでもない”直感”が働いた。

(もしかしたら、この人と結婚するかもしれない)

こんな心の声を誰かに聞かれようものなら、なんて身勝手な酷い妄想だと呆れられるに違いない。

それでも男にとってそれは”妄想”ではなく、直感だった。

京子の顔を見たとき、ふと心の中に沸き上がったのだ。それは男だけにしかわかり得ないものだった。

✳︎

男の最初の仕事は、店の掃除や皿洗いなどだった。主に厨房での調理補助が多く、接客をすることはない。

男の予想以上に店は忙しかった。特に、一番混雑するランチタイムは近隣のオフィスワーカー、観光客、家族連れで1階も地下も満席になったり、店の外で数人が並んだりすることさえあった。

ピーク時は、忙しい表情をしながら京子や他のホールスタッフが厨房に使用済み食器を次々と運んできた。

一度にたくさん食器を効率よく食洗機の中に入れていかないと、ストックスペースがすぐに一杯になってしまう。グラス、湯呑、平皿、深皿、ボウル皿など、それぞれの形状に合わせて上手く詰めていかなければならない。

食洗機が稼働している間も、無駄な動きはしない。コペンハーゲンでの2ヶ月の皿洗いの経験が、このパリで生かされた。

「お疲れさま! 今日は助かったよ。また明日も頼むよ!」

オーナーにそう言われた時、男の初出勤の日が無事に終わった。

店の外に出ると、街はすっかり夜になっていた。鋳鉄製の街灯が作りだす柔らかい光がオペラ通りを照らしていた。

疲労感はそこまでないが、どこか頭がぼんやりしている。

男が歩いているオペラ通りの一番奥に、煌々と輝くガルニエ宮(オペラ座)が見えている。しかし、この優雅な建築物でさえぼんやり霞んでしまっている。

もちろん男は酒など一滴も飲んではいないが、どこか酔っぱらっているかのように道を歩いていた。

夜を彩るパリの街の中を歩きながら、その景色に何一つ感じるものがない。むしろ、ガルニエ宮が京子の顔にさえ見える。男は空を見上げた。

(惚れたのかもしれん)

初出勤の日以降、男はほぼ毎日のようにレストランで働いた。そして誰も気付かないほど、京子のことを強く想うようになっていた。

*** (#8へつづく) ***

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。毎週土曜日に小説は投稿しています。

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