【小説】大桟橋に吹く風 #4 雨の大桟橋
#4 雨の大桟橋
横浜港湾内に大桟橋が完成したのは、1894年(明治27年)のことだ。以来、大桟橋は幾度も姿や形を変えながらその時代の空気を吸ってきた。
大正6年には、関東大震災によって桟橋のほとんどが倒壊し海に沈んだ。3年後に復旧工事が完了し、昭和に入るとイギリスから豪華客船が入港した。
イギリスの映画俳優チャーリー・チャップリンを乗せた氷川丸が、この大桟橋に帰港したのもこの頃だ。
1960年代に入るとまもなく、ソ連のナホトカ*を結ぶ「ナホトカ航路」が開設された。以来、この大桟橋から異国の地へ渡る旅人たちが増えた。
1964年、初の東京オリンピックが開催されると同時に国際客船ターミナルがオープンし、外国人観光客を乗せた大型客船が世界中から接岸し、海に浮かぶホテルとして停泊した。
2002年6月、新国際客船ターミナルや展望デッキを備えた大桟橋として新たに生まれ変わった。これが現在の大桟橋の姿である。
*
ボォッボォッボォッボォッボォッボォッ
ザァー ザァー ザァー
リズムカルなエンジン音と波をかきわける音が共鳴しながら、一隻の漁船が海の上をゆっくり通り過ぎていく。
秋風が吹く昼過ぎ、奏太は大桟橋の展望デッキからその漁船を目で追いかけていた。全長400m以上ある大桟橋の展望デッキは、丘のように緩やかな起伏を持ったウッドデッキが連続している。端にめぐらされたフェンスに腕を置きながら、奏太はすっかり気分を良くしている。
(いい音だなぁ。あの船の音は、俺のバイクと似ている)
奏太は、大桟橋のたもとにある駐輪場に自分のバイクを止めている。ここは自転車やバイクなら無料で止められる。だから、心置きなく大桟橋からの情景に浸れるのだ。
今日はたまたま大学の授業もアルバイトも休みだ。そして、彼女もいないからこうしてソロツーリングを楽しんでいる。
早朝から三浦半島をぐるっと走りに行っていた。帰り道の湾岸線から横浜のビル群がぼんやり見えた時、とっさにウインカーを出して高速を降りていた。
*
大桟橋に来たのは半年ぶり、今年の春先にバイクで立ち寄った以来だ。
その日、展望デッキには溢れんばかりの人が集まっていた。大型客船「ASUKA」が、まもなく外国へ向けて出航するところだったのだ。麗らかな空の下、花の匂いと潮の香りが入り混じった爽やかな風が吹いていた。
奏太は傍観者でしかなかったが、間近で眺めた豪華客船は見応えがあった。大きな煙突から煙が出て、ボォーっと力強く音を立てながら出航を今か今かと待ち望んでいるかのようだった。
こんな大きな船に乗って外国へ行ってみたいものだと思った。
奏太は、まだこの日本から出たことがない。九州や沖縄もまだ足を踏み入れたことがない。
(本当に外国ってあるのか?)
そんな疑問は大学生になった今でも持ち続けている。中学生になったばかりの頃、友達にそんな疑問をふと投げかけたら、「えっ、何言ってんの?」と呆れられた。
確かに写真やテレビで何度も”外国”は見てきた。だが、奏太にとってそれは”虚像”のようなもので、現実として”外国”は奏太の目の前にまだ存在していない。
その国やその街にある建物や空気、そこに住んでいる人たちの姿、街中に吹く風、匂い、音。それらがそっと手や肌に触れることがない限り、奏太にとっての”外国”はまだないのだ。
だからこそ、この目で一度外国を見てみたいという思いが込み上げてくる。
*
奏太は展望デッキを一人で歩いて回ったが、今年の春に見た大桟橋の賑わいが嘘のように人の姿が殆どない。
空はどんより曇っていて、ベイブリッジや大黒ふ頭の工場群もどことなく霞んでいる。今朝の天気予報では午後からにわか雨が降ると言っていたが、おそらく時間の問題だろう。
ランニングをしている外国人女性、スーツ姿の中年男、ニット帽をかぶりビニール傘をすでに手に持った長身の女性。
カップルは一組だけだった。展望デッキにある自販機で奏太がホットコーヒーを買った時、すぐ脇にあるベンチで身を寄せ合って楽しそうにお喋りをしていた。
缶コーヒーを買う為にベンチの横を通って行くと二人の会話が聞こえてきた。ミクシィ*のフォトアルバムを作ろうとか、仲間の誰かが付き合い始めただの、他愛のないことだった。
奏太も友達の勧めでミクシィを始めたが、何人かに紹介文を書いてもらっただけでほとんど続かなかった。
奏太は、温かい缶コーヒーを片手に持ちながら、みなとみらいのビル群を眺めていた。
(きっと夜は夜で綺麗なんだろうなぁ)
*
ぽつん ぽつん ぽつぽつぽつぽつ
展望デッキに立ち尽くしていると、とうとう空から雨が降ってきた。
合羽ならバイクに括りつけているからなのか、奏太は妙に落ち着いている。
さっきベンチに座っていた若いカップルは、すでに相合傘をしながら大桟橋の入り口の方へ歩いていた。
(いいなぁ相合傘。最後に相合傘したのいつだろう)
雨は次第に強くなり始めている。水に強いイペ材のデッキに雨粒がじわじわと染み込んでいく。
(そろそろ行きますか。 んっ?)
奏太が駐輪場へ戻ろうとした時、展望デッキの一番高い場所でカメラを構える一人の男性を見かけた。
左手で傘を差し、右手にコンパクトカメラを持っている。傘を首と肩で器用に支えながら写真を撮っていた。
奏太は、雨の降る大桟橋で写真を撮るその男性の姿に理由もなく惹かれた。奏太の足は、自然とその男性の方へ近づいていく。デジタルカメラのシャッター音が聞こえる距離まできた。
ピピッ、カシャッ!
じつは奏太も写真を撮ることが好きだ。家には、800万画素に満たない時代遅れの小さなデジタルカメラと、小学生の時に父親から貰ったキャノンの一眼レフカメラがある。一眼レフといっても、フィルムカメラだ。マニュアルだからピント、絞り、シャッタースピードまで全部自分で考えなければならない。
カシャンッ
マニュアルカメラ特有のあのシャッター音も、たまらなく好きになった。
だがデジタルと違ってちゃんと撮れたかすぐ分からない。現像して失敗していることも多々あった。それでも、父親からこれはいい写真だと褒められることもあった。子供ながら嬉しかったものだ。
*
「いい写真撮れそうですか?」
奏太はその男性に近づくと思わず声を掛けた。
「ええ、そうですね。こんな静かな大桟橋も珍しいですよね」
そう言われてみれば確かにそうだ。今年の春先に来た時の大桟橋と同じ場所とは思えない。船は一隻も停泊していないし、視界もよくない。
晴天の方が色鮮やかな写真が撮れるだろう。だが、この男性は雨の大桟橋の雰囲気を望んでいたかのようにカメラを向けていた。
奏太は、きっと男性からそうしたオーラを感じたのだろう。
話を聞けば、全国津々浦々の土地を旅しながら写真を撮っているという。それを聞いた奏太は、嬉しくなった。奏太も旅が好きだ。
自然と会話が弾む。
「モノクロで撮っているんですか!」
「時々カラーも撮りますが、今はモノクロがメインですね。もともと神社やお寺の風景を撮るのが好きなんですよ。海や山の景色も好きですが」
傘を持っていない奏太に気付いた男性は、自分のさしている傘を奏太の頭にも少しかかるように手をすっと伸ばしてくれた。
奏太にとって、それは思いがけない”相合傘”の格好になっていた。
2人の会話は続く。
旅や写真の話をしているうちに、奏太は男性との思いがけない共通点も見つけた。地元が近所であり、三浦半島も好きな場所の一つだということだ。
奏太は男性との束の間の会話を楽しんだ後、男性に挨拶をして別れた。
駐輪場まで走って行く時、顔に雨が激しく当たった。
それでも心の中はどこか弾んでいた。
*** (#5へ つづく)***
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。毎週土曜日に小説は投稿しています。
*ミクシィ・・・株式会社ミクシィが運営する2004年2月に始まった SNS
*ナホトカ・・・ロシア極東に位置する港街。【#2 怪しい小瓶】に登場。
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