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【小説】大桟橋に吹く風 #3 冬めくシベリア鉄道

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#3   冬めくシベリア鉄道

夜、男はソ連のナホトカから列車に乗り込んだ。

男の旅は始まったばかりだ。

ここからフィンランドのヘルシンキまで行く。その距離は果てしない。

ナホトカからモスクワまで9000km以上*ある。男はモスクワから約700km離れたサンクトペテルブルク、さらにそこから約300km離れたフィンランドの首都ヘルシンキまで行こうとしているのだ。

男が乗り込んだ2等寝台は、ハードクラスと呼ばれている。4人用コンパートメントになっており、狭い通路に沿って並んでいる。収納可能なテーブルの両側にベンチシートがあり、その上にも寝台が備え付けられている。

3等の開放寝台車両(ソフトクラス)は最も値段が安かったが、この時代は外国人旅行者の利用はできなかった。

男がいた客室はずっと満員ということはなく、1人だけの時もあれば家族連れが乗ってきて満員になることもあった。そして、綺麗な女性と2人だけという幸運に恵まれることもあった。

これから横断するシベリアには、すでに極寒の季節が始まろうとしている。

列車が動き出した時、男はいよいよ心を躍らせた。

「ガタンゴトン、ガタンゴトン」

列車は、シベリアの大地を一定の鼓動を刻みながら走っている。

翌朝ハバロフスクに到着した後、列車は西へ西へと進み続けた。

シベリア鉄道で迎えた2日目の夜。

ガタガタと揺れる寝台で、ロシア語の基本フレーズが書かれた冊子を読んでいると、カチューシャを歌うロシア人たちの歌声が別の客室から聞こえてきた。男女の声、子供の声が重なり合った心地よい響きだった。

男は読んでいた冊子を閉じると、身体を起こした。

車窓の外に月がでている。満月だった。

暗闇の中で光を放ち続ける月明かりは、雪を被った広大な大地と白樺の森をうっすらと浮かび上がらせていた。

男はヘルシンキまでこの変わりゆく車窓の風景を楽しんだ。

列車がチタ駅からイルクーツク駅へ向かっている途中、まるで海のように広がるバイカル湖*が姿を現した。

アジアとヨーロッパの境界線と呼ばれるウラル山脈を越える時、列車は緩やかな勾配を走った。

シベリア鉄道の風景は、沼地や湖があり、森があり、丘や山もある。この季節、ほとんどが雪に覆われていた。

何時間も家一つない景色が続く。そうかと思うと、深い谷あいに木造の小さな集落が姿を現すこともあった。雪の中で働く村の男たちの姿も何度か目にした。

(日本の農村にある集落となんとなく似ている)

(この国の未来はどうなっていくのだろう)

(ここはヨーロッパなのか、それともアジアなのか)

移りゆく景色を眺めながら、男はそんな思いをあれこれと巡らせていた。

途中、停車駅で男は何度かホームに降りた。発車まで30分ほど時間があることもあり、外国人旅行者は立ち入ることができない閉鎖都市を除けば駅の周辺をぶらつくこともできた。男にとって、それは清々しいひとときだった。

駅には露店商が食べ物や日用品を売っている。ホームで降りる乗客たちを今か今かと待ち構えているのだ。両手で大きな籠を抱えて売り歩く女性や子供の姿もあった。

男は、露店商からチューインガムやインスタントコーヒー、テーブルに並べられたピロシキあさりを楽しんだ。食堂車の料理よりもずっと安く、味も美味しかった。

ある時、駅のホームでチューンインガムを買った。すると、それを見計らうように少年が近寄ってきた。腕白小僧の顔つきをしているが、みすぼらしい格好だった。少年は手を差し伸べ、大きな声で言ってきた。

「ダイーチェ!ダイーチェ!(ちょうだい!ちょうだい!)」

ロシア語だったが、何を言っているのか男はすぐ理解した。

男は、ガムを何枚か手に取ってそれを少年に渡した。

「スパシィーバ!!(ありがとう!)」

少年はにこりと笑うとガムをさっと受け取り、逃げるように走り去った。

「なんや、逃げんでもええやないか...」

レイラという美人が男のいる2等客室に乗車してきたのは、4日目の夕方である。列車はイルクーツクに到着した。

男は湯沸かし器が備え付けられた車両へ行き、インスタントコーヒーを作っていた。自分の客室に戻ると、色白で栗色の長い髪をした綺麗な女の子が荷物を降ろしている。

男は少し戸惑ったが、列車の中で覚えたロシア語で挨拶を交わした。

「ズドゥラーストゥビィチェ!(こんにちは!)」

女の子はにっこり笑い、優しい声で答えてくれた。

「ズドゥラーストゥビィチェ!」

彼女はイルクーツクの駅から少し離れた郊外に実家があるらしい。男はロシア語はおろか、英語もあまり話せなかったので会話は長く続かなかったが、それは男にとってこの列車の旅で一番幸せな時間の始まりだった。

男はさっそく自己紹介をした。

「僕はYoshi(ヨシ)。日本人です。ヨシと呼んでください」

そして彼女も名前を教えてくれた。

「ヨシ、私はレイラよ。私はここが地元」

イルクーツクで生まれ育ったレイラは、エカテリンブルクまで行くらしい。男と同じ学生だった。今住んでいるエカテリンブルクの大学に通っていて、数日間だけ実家に帰っていたという。

テーブルをはさんで向かい合っていたが、正面から見る彼女はさらに綺麗だった。白い肌とぱっちりしたブルーの瞳、色気のある口元、そして優しい眼差し。ヨーロッパの美人というのはこの子のことだろうと思った。

レイラは、男が日本人であることに興味を持ってくれた。会話ができなくても、紙に書くことでお互い色んなことを伝えられた。

思い浮かぶ言葉をノートに漢字で書いて見せた時、とても神秘的だと言ってくれた。男はいい気分になり、「美人」という言葉も書いた。

「これはどういう意味?」

レイラが男にそう聞くと、男は得意げにこう説明した。

「君のような綺麗な人のことを漢字ではこう書く」

レイラはそれを聞くと嬉しそうに笑った。

朝起きると、湯沸かし器でレイラの分のコーヒーを作ってあげたり、ノヴォシビルスク駅では一緒に歩いて回ったりした。

食堂車のビーフストロガノフをご馳走することはできなかったが、駅の露店に並ぶピロシキはレイラにもご馳走することができた。

駅には自分と雰囲気が似た黒髪のモンゴル系の顔をした人たちも大勢いた。男はレイラと2人で歩きながら、ここは日本かと錯覚してしまうほどだった。

男はすっかり楽しんでいた。だがそんな時間も、男のシベリア鉄道の旅におけるわずか2泊という時間でしかなかった。

エカテリンブルク駅に列車が到着した6日目の朝、男は降車ドアを境にしてレイラを見送った。

「ヨシ、アリガトウ!」

レイラは、日本語で礼を言うと男に背中を向けて歩いて行った。男はレイラの姿が見えなくなるまで見届けた。

まもなく、駅舎の横で待っていた長身の若い男がレイラと熱い抱擁を交わす光景が男の目に飛び込んできた。

(まぁ、そうなるやろうな...)

そして、レイラはその若い男と一緒に駅舎の中へと消えていった。

客室に戻ると、レイラと入れ替わりで年配の夫婦が相部屋になった。

モスクワまで、まだ1700km以上ある。

結局、男はモスクワの街で一泊した以外は列車の中で8回も眠った。

***(#4へ つづく)***

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

土日連投の予定でしたが、毎週土曜日に1話ずつ投稿します。よろしくお願いします。

*シベリア鉄道はウラジオストック~モスクワ間が9288km。ナホトカからだと約60km延びる。札幌から那覇までは2418km。

*バイカル湖は、日本一大きな琵琶湖の約46倍の面積を誇る。面積は世界8位。湖の水深では世界1位。

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