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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(59)

〈前回のあらすじ〉
 T大を出たまことは、そこに黒尾とかおりが滞在しているとも知らず、大学に隣接する旅館を尻目に、松林の小径を抜けて、T大学付属の海洋博物館へ足を運んだ。そこにはシロナガスクジラの骨格標本が展示されており、人間と同じルーツを持つのだと解説されていた。T大に戻った諒は、女性事務員の案内で風間教授の研究室に向かった。

59・兄を覚えていてください

 僕は、佐伯さんが自分の軽率な発言を後悔し、心を痛めているのではないかと心配していた。こういう事態になったとき、僕は自分の力量でその場に漂う重苦しい空気を振り払うことができないことを自覚していた。

 柳瀬結子と墓前で出会ったときも、彼女が水族館にやってきたときも、僕は自分のテリトリーを守ることに精一杯で、彼女の気持ちを慮ることができなかった。だから、直の死を知らせる機会を逸したことで柳瀬結子を苦しめてしまった。その過ちを繰り返してしまうのではないかと思い、先刻事務室を訪れたときに、佐伯さんを前にして直の死に触れられなかったのだ。

 直の死を何かの暗喩と読み取らないまでも、僕自身の身の上に起こった重大事件として、正面から向き合ってこなかったことが、僕の根本的な間違いだったのだと思う。

 父親の心中のせいで直が心を痛め、父親のあとを追うように自殺した。その死を悼み、母親が自分の殻に閉じこもってしまった。僕はといえばそうした事態から逃げてばかりで、家族でいながら常に暢気のんきな傍観者を気取っていた。そうした愚かさに気づかせてくれたのは、突如として僕と母親の前に現れた黒尾だった。

 母親の生活を顧みず、かおりとの逢瀬に浮かれていたとき、栄養失調で命を落としかけた母親を救い出してくれた黒尾が、僕を強く叱責した。

「お前はお母さんを殺すつもりだったのか!」

 もちろん、僕にそんなつもりはなかった。だが、家族でも友人でもなく、ただ死んだ直の友人というだけの黒尾に手厳しく怒鳴られ、頬を張られ、僕は肉体的に母親を殺す前に、すでに精神的に母親を抹殺していたのだと気付かされた。そして、そこで傍観していれば安全だと思っていた場所が、実は今にもひび割れそうな薄氷の上であったことを知らされた。

 僕はそれから直の死を考え、父親の死を考えた。このまま彼らの死を追求しないでいたら、やがて僕自身も彼らと同じように死の誘惑に翻弄され、僕の本意など構わず、彼らのあとを追うように自ら死を選んでいたかもしれない。

 ただ、それが怖かったわけではない。本当に怖かったのは、僕の家族を取り囲んだ死の因縁も解き明かせず、残された僕も母親も死の渦に巻き込まれたまま、命を持ちながら死んだように生き続けなければならないことだった。

 自分の中にいるもう一人の自分と闘いながら、光を求めて手を伸ばし続けるかおりや、善とか悪とかでなく、未来や過去でもなく、今を貪欲に生きる黒尾を見ているうちに、僕に残された「生」とは何かを、僕は強く深く考えるようになった。もちろん、望まない境遇に縛られたまま、ただ成すべきことを淡々と成すだけに心血を注いでいる竹さんの存在も、僕を突き動かす原動力になっていた。

 不意に佐伯さんが歩みを止め、共産主義国の軍人のように機敏な動作で僕に向き直った。そして、何も言わず視線だけでそこにあるドアの表示に僕を誘導した。そこには油性マジックで走り書きをしたような文字で「風間研究室」と書かれたプラスチックの板が貼られていた。

「こちらが風間教授の研究室です。すでにあなたが見えることを伝えてありますので、ノックしてそのままお入りください」

 佐伯さんはまるで留守番電話や駅のホームの案内のような自動音声装置のように、冷淡にそう言った。僕は、ほんのわずか前に厳しい姉に叱られるような優しさを感じたのだが、今の彼女にはそうした温もりは感じられなかった。

「はい、ありがとうございます」
「私があなたに尋ねたことも、あなたから聞いたことも、私はあなたと別れるこの瞬間に忘れます。職務を逸脱して、個人的なことに深入りしてしまい、申し訳ありませんでした」

 佐伯さんは、そう言うと僕の肩をかすめて、来た順路を逆行していった。

(いや、違うんだ)

 僕は心の中で叫んでいた。そして、振り返り、その心の声を彼女の背中に投げかけた。

「忘れないでください!」

 僕の思いがけない強い呼びかけに、佐伯さんは足を止め、ゆっくりと僕に振り返った。

「あなたは僕の兄を知りません。でも、僕が兄のことをきちんと知っていたかというと、とても胸を張ってそう言えません」

 僕と対峙した佐伯さんが、手に持っていたボールペンをゆっくりと口元に運ぶのを、僕はじっと見ていた。

「ただ、これから僕は兄を深く知ることになるでしょう。そんな予感がしています。兄が何を考え、何を成そうとしていたか、僕は記憶に焼き付けるでしょう。それでも、兄が生きた証を実証できる者が僕だけではとても心細いです。だから、兄を忘れないでください。あなたも、兄を覚えていてください」

 直が生きた数少ない証の一つは、五年もの間、小さな水族館の倉庫に閉じ込められていて、そのことを知っているのは僕とかおりと竹さんと黒尾、そして高木や館長を含む水族館の僅かな職員だけだった。だからせめて、直が天女伝説が残る小さな半島の大学にいたことだけでも、佐伯さんに覚えていてほしかった。

 直が何を残そうとしたのかまでは、今の僕にはわからない。ただ僕にはそのメッセージを解明し、できる限り多くの人に伝える義務があるように感じられた。だから、事務員であろうと、教授であろうと、民宿の女主人であろうと、直の名を耳にした人はそれを焼き付け、決して忘れないでほしいと、僕は願わずにはいられなかった。

「承知しました」

 わかりました、ではなく、佐伯さんは毅然とした面持ちでそう言った。

「あなたのお兄さんを、私は忘れません」

 佐伯さんは改めて僕に一礼し、やはり軍人のように的確に踵を返して背中を向け、薄暗い廊下を歩いていった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(60)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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