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何のために生きているのだろう。

概要

以下の文章は、2022年 7月23日 午前3時頃に、ハンドルネーム『どんすこぴ』が、私が生み出した自問自答の、記録である。どうしてこんなことをしているのか、振り返って見てもまったく思い当たる節はまったくないが、なんだか頭の中がまたしてもすっきりしたので、とりあえず共有してみようと思う。何か間違っていれば、指摘をお願いしたい。

本文『何のために生きているのだろう、という疑問に対して。』

何のために生きているのだろう

そうした疑問を投げかけられたとき、私は決まって

生きることに理由なんてない

と、答えていた。我々生命体は、結果的にこうして生存しているだけであって、
この現状にも過程にもきっかけにも、理由なんて無いのだ。

そうした考えに反するように、私は最近、他人のために生きてみた。
他人のために生きると言うのは素晴らしいことだった。私は、一度そうした世界を体験してみて、何のために生きているのだろう、という疑問を持つ気持ちを理解することができた。

自分のために生きると言うのは難しいことだ。
私が、私自身に価値をあまり感じていないということもあるが、頑張ろうと言う気持ちが出てこない。使命感も義務感も湧いてこない。きっと甘えだ。そう、違うんだ。他人のために生きていたのではない。私は他人に依存して生きていたのだ。誰かに依存することで、平静を保とうとしていたのだ、他人は私が私へ甘えないようにするための理由だったのだ。

これは、きっと間違った生き方だ。

私は、私の力で私を何とかするべきなのだ。

私は、もっと自立するべきなのだ。

私に、そんなことができるのだろうか。

私は、私が思っている以上に、みんなが思っている以上に、子供だ。

大人になるとは、どういうことなのだろう。わからない。わからない。

今日も私はひとりだし、明日も私はひとりだし、明後日もきっとひとりだ。

本当はそうじゃないことくらいわかっている。

独りなんかではない。周りにたくさんの人が居る。でも私は、そうした人たちを、心から信頼したり、好きになったり、未だにできていないのだ。誰か、身の回りの誰かへ、私は頼っていいのか。怖いのだ。きっと拒まれる。きっと嫌われる。どうしてだろう。私は、私以外の人間が怖い。

どう生きてきたら、こんなに暗い考えをもつようになるのだろう。
不思議だ。不思議で不思議で、不甲斐ない。情けない。

居場所なんて、どこにでもあるじゃないか。そこを居場所と認める勇気さえあれば。

どうして、居場所と認めることに勇気がいるのだろう。

私は、私へ何か、罰が下ったり、そうあるべきなのだと、そう考えているのか。
私は、私が幸せになることを拒んでいるのか。

ちがう。私はきっと、特別でありたいんだ。特別であるならば、なんでもいいのだ。

特別に不幸であるだとか、特別に脆弱であるだとか、そうした特別性を見出そうとすることは、自分のことながら、ひどく惨めで、バカバカしい限りだと思う。どうしてそんなことになってしまったのだろう。

断言できる。私は誰かにとっての特別でありたいのだ。誰かに愛してほしいのだ。私は求められたいのだ。求められるためには何をするべきか。私を知ってもらうほかないだろう。そうだ、だから私はこうして今をすごしているのではないか。私は私のために写真を撮り、動画を作り、映画を学んでいたのだ。

考えに考えた挙句に、私は私のために努めていることが確認できた。私は他人から理解され、求められ、愛されるために、何かをしようと生きているのだ。

生きることに理由なんてない、という回答をしている理由を放ったまま、自問自答にふけってしまった。最後にそこだけ回収して、この文章を締めるとしよう。

何のために生きているのだろう

そうした疑問を投げかけられたとき、私は決まって

生きることに理由なんてない

と、答えていた。我々生命体は、結果的にこうして生存しているだけであって、
この現状にも過程にもきっかけにも、理由なんて無いのだ。

まったく夢のない考えだ。『何かのために生きている』という気持ちは、それが勘違いであったとしても、私のように、その人を強く支えることになる。その効果はとてつもない。反面、それがなくなってしまえば、大抵の人は自然と迷子になる。目標や目的が無い状態は不安でしかない。そうした人間は、間違いなく多いだろう。本当の自由は、大抵の人間に与えられなくて然るべきなのだ。自由であるということは、すべてが自分に向かってくるということでもあるのだ。何の縛りも無い代わりに、誰も守ってくれない。それは怖いことだ。

何かのために生きるという気持ちは、誰かに守られていると感じているときにうまれるもの、なのかもしれない。

何のために生きているのだろうと聞いてくる人間は、私がわざわざ『理由なんてない』と突き放さなくても、そんなことくらいわかっているはずだ。ただ、きっと気づきたくないのだ。どうしてかはわからない。それ以外の選択肢を、設けたくないのかもしれない。私なら、そう考えるはずだ。できれば、何も考えたくないものだし。

何にせよ、本来、生きることに理由なんてないことは事実だ。全部結果だ。確かに望まれて生まれてはきたが、それもまた結果だ。親のために生きると言うのもアリだが、生存は、基本的には自分という個体のためにあるものだ。群れを成すものならばまた違うかもしれないけれど、人間は、それぞれを個別の存在と考えるようになったが最後、自分のために生きるか、誰かのために生きるか、という選択肢に遭遇する。絶対に遭遇するはずだ。誰との関りも無い人間なんて居ない。たとえホームレスであっても、野生の動物に育てられたとしても、その過程には、ぜったい他の、人間以外でも、何者かの存在があるはずだ。そうしたもののために生きるのか、そうしたものから離れていくのか。その末にあるのが、この問答なのだろう。私は未だに選びきれていないから、そんな、バカみたいな答えしか出せないのだ。

だから私には、生きることに理由なんてない、としか答えられないのだ。

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