青い自転車
夏の日の昼下がり。
遅めの昼食を済ませた僕は1日中働いているクーラーが用意した、少し寒いくらいの部屋の真ん中で横になった。
別に見たいわけでもないTwitterのタイムラインを流し見る。
フォロワーの"今"が次々と更新されていく。書かれた文章なんてほとんど読まず作業のように流れて来た投稿にいいねを付ける。
こんな事を毎日無意識に行う僕はスマホに毒された典型だと思う。
そんな無為な時間を過ごしていると祖父が1階から僕の名前を呼んでいるのに気が付いた。
めんどくさいなと思いつつ1階まで降りて行く。
居間に入ると同時に祖父は僕に尋ねた。
「ガレージにあるお前の自転車、もう処分していいだろ?」
話を聞くと、明日の昼に無料で不用品回収してくれる業者が回ってくるから、この機会にガレージに眠る粗大ゴミをまとめて出してしまいたいという事らしい。
僕は特に迷う事もなく「別にいいよ」と返し早々に居間を出た。
そういえばあの自転車まだあったっけ。自分が自転車を所有してる事すら何年もの間忘れていた。
僕は部屋には戻らずそのままガレージへと向かった。
ガレージは使わなくなった箪笥やらバケツやらバットやらが無造作に置かれている。その奥に枯れた植物のように生気を失った例の自転車を見つけた。
元の色が定かではないくらい埃にまみれて、タイヤは前後ろ共にぺしゃんこになってしまっている。
僕はそれを家の前まで引っ張り出した。この自転車に触れるのも何年振りだろう。高校に入学してからは乗ってなかったはずだからもう10年近くになるだろうか。
僕はかつての面影すら感じないほど汚れたその自転車をしばらく見つめ、せめて最後に綺麗にしてやりたいと思った。
僕は家から雑巾を取り出し、玄関脇の水道にホースを差し込んだ。
勢いよく塗装部分に水を掛けると少しずつ汚れの隙間から青色が浮き上がってきた。忘れていたその色を少しずつ認識する。
雑巾で強く擦ると、自転車が走っていた当時の色を取り戻していく。
そしてそれと同じように僕もまた当時の記憶が蘇る。
この自転車を買ったのは確か中学に入学したのと同時くらいだった。
高校に入学してからは電車通学になって、その途中の都心部が活動範囲の中心になったからそれ以来ぱたりと乗らなくなったと思う。
乗っていた期間は3年とあまり長くはないけど、中学生の活動範囲なんてほぼ地元内に限られるからその3年間はほぼ毎日のように乗り回していた。
この自転車に乗って学校へ行って帰ってきて、またこの自転車に乗って遊びに出掛けたり、塾に通ったりしていたから、中学時代は相棒と呼べるくらいの時間を一緒に過ごしていたと思う。
友達と遊びに行く時は、それぞれの自転車を漕ぎながら学校やゲームの話をして、その目的地に着くまでの時間すらも楽しかった。
行きつけの駄菓子屋前で、自分たちの自転車の横で駄菓子を食べていたあの景色は今でも鮮明に浮かんでくる。
確か隣の市のショッピングモールまで自転車で1時間くらい掛けて行った事もあった。今なら絶対電車で行けばいいと思うけど、当時の僕たちにはそんな選択肢はなくて、遠い場所に仲間と自転車で行くという行為も目的の1つだった。
帰り道の僕たちはきっと誇らしげな顔をしていたと思う。
嫌な事があった日はギアを1番重くして、ゆっくり寄り道をして帰った。
その時に知った道も沢山ある。
思えば高校に入学してから、地元の家から最寄り駅まで以外の道をあまり使わなくなった。
神社の裏の草木に囲まれたあの細い道や、虫や蛙の鳴き声と流れる水の音が心地良く耳に入ってくるあの川沿いの道は、今でもその景観を変えていないだろうか。
僕は1つ1つ思い出を振り返りながら、この自転車と会話をするように磨き続けた。もう黒くこびりついた汚れはかなり落とされてきて、10年振りに陽の光を浴びた自転車はキラキラと輝いていた。そうか、こんな綺麗な青色をしていたっけ。
僕は特別青色が好きと言う訳でもなかった。それでもこの自転車を買ったのは、小学校の頃から想いを寄せていた子の好きな色が青色だと聞いたからだ。それから青色のものを無意識に探すようになっていた僕は、自転車屋に行った時真っ先に目に飛び込んで来たこの自転車に即決した。
今振り返るとこの色の秘密はあまりに恥ずかしくて誰にも話せない。
こんな事を躊躇わずにできてしまう中学生の僕は臆病な怖いもの知らずだった。
好きだった子とは小学校高学年の頃から男女何人かのグループでよく遊ぶ仲だった。一緒に遊び始めた頃はなんとも思っていなかったけど、気付いたら遊んでいる時以外も彼女の事を考えるようになっていた。
大人しい彼女が時折見せる花のような優しい笑顔が好きだった。
中学に入学してからはより仲良くなって、どこかに遊びに行く時は決まって彼女の姿があったと思う。
僕らの仲の良さを証明する極めつけは同じ塾に通っていた事だ。
中学に入学して少し経った時に「この塾に通う事になったんだけど一緒に入らない?」と彼女にチラシを渡された。勉強なんか大嫌いなのに迷う余地すらなかった。当時の僕はそれほどまでに一緒にいる時間が欲しかったんだと思う。
家で塾に通いたいと訴えた時は、僕が今までで1番母親を動揺させた瞬間かもしれない。
塾の授業が終わると、1人じゃ避けたくなるような街頭のない暗闇の道を自転車で2人並んで帰った。
暗闇と静寂だけに包まれた帰り道。
そこには僕たちの会話を邪魔するものが1つもなくて、本当に世界が僕ら2人だけになったようだった。彼女の事しか見えていなかった僕はその時間が1番幸せだったと思う。
どれだけ一緒の時間が増えても僕たちはお互いの核心に迫る話はした事がなかった。僕は男の親友にすら打ち明けられない気持ちを、本人に伝えるなんて考えられなくて、自分の気持ちを隠したまま彼女が横にいる時間がずっと続けばいいと思っていた。
悪く言うなら、その曖昧な関係にあぐらをかいていたんだと思う。
そして中学2年の半ば、そんな平穏な日常を打ち砕く天変地異とも呼べる出来事が起こった。
ある日学校に行くと、僕たちが付き合ってるんじゃないかとクラス中が色めき立っていた。
思春期に入って間もない子どもというのは本当に残酷で、周りの生徒間にトピックとなるような動き見つけては過剰すぎるほどに反応する。
きっと校外で2人でいる所を見つけた誰かが面白がって噂を流したんだろう。
「あいつの事好きなの?」という冷やかしをはっきり否定してはいたものの、自分の中にひた隠しにしてきた気持ちが学年中に広まったと思って、雪の結晶のように繊細で脆い思春期の僕の心はぐちゃぐちゃにかき乱された。
その日は1日中クラスメイトからのナイフのような視線が、怖くて怖くて仕方がなかった。この世界には僕たち2人が一緒にいていい場所なんてないんだとさえ思った。
彼女もひどく動揺していたと思う。接し方が分からなくなった僕たちの関係は、錆びついた歯車のように上手く回らなくなっていき、話す事も塾終わりに一緒帰る事もなくなっていった。
そうしていくうちに僕たちを茶化す生徒もいなくなって、今までの日々が夢だったかのように、彼女のいない世界が日常になった。
点と点になった僕たちはまるでお互いが見えていないかのように振る舞った。でも僕は誰よりも彼女を見ていて、つい話しかけてしまいそうで、でもどうする事もできない自分が情けなくて、それを思う度心に鈍い痛みを覚えた。
彼女を好きな気持ちはあるはずなのにその上を恐怖心や羞恥心が入り乱れ、良かったはずの彼女との空間の居心地も悪くなった。当時の僕の心は処理できる許容範囲をゆうに超えていたんだと思う。
1度染み付いた日常を変えるのは困難で、そのまま僕たちは中学3年になった。
学校が始まってまだ間もない4月の半ば。
塾の授業前に先生から目の覚めるような話があった。
彼女がその日いっぱいで塾を辞めるらしかった。あの日以来、話さなくなってもなんとか塾を続けて来た僕たちだったが、彼女はきっと限界を迎えたんだろう。
僕たちの関係に正式に終わりを告げられた気がした。
最後の授業が終わると、それと同時に彼女が立ち上がって俯きながら僕の席の前を通って足早にドアに向かっていく。
今しかないと思った。
誰が見ても明らかなほどの悲壮感を帯びたその背中に言葉をぶつけようとした。でも、想像を絶するほど深く広く空いたその溝を、飛び越えられる言葉が見当たらなかった。
身体中の細胞がひとつひとつ死んでいくかのように力が抜けていく。
彼女の背中が見えなくなってもしばらく動けないままでいた。
今日を逃したらもう永遠に話せない。分かってたかのように強く思った。
どれほどの時間葛藤していたかは分からないけど、僕は半ば強引に椅子から身体を引き剥がした。
もしかしたら、下の駐輪場にまだいるかもしれない。
もしかしたら、待ってくれているかもしれない。
なぜか浮かんだ神頼みのような期待を胸に僕は教室を飛び出し、駐輪場まで駆け降りて行った。
でも、そこにはもう彼女の姿はなかった。
その日僕は溢れそうな涙を堪えながら自転車を漕いで帰った。
かつて2人で通っていた帰り道は1人で通るとそのまま暗闇に飲み込まれてしまいそうだった。自転車を漕ぎ進める度に彼女と過ごした場面が走馬灯のように浮かんで来て、事の重大さがじわじわと身に染みていった。
なんでこんな事になってしまったのか、何を咎めたらいいのか分からなくて、ただただ悲しみの底に沈んでいく事しかできなかった。そんな時に、僕に唯一残った、彼女が好きな色の自転車に乗っているという皮肉も、十分すぎるくらいの追い討ちになった。
あんなに悲しくて孤独を感じた帰り道は後にも先にもないと思う。
結局、僕たちはそのまま言葉を交わす事なく卒業した。
当時携帯を持っていなかった僕たちは卒業後連絡する手段もなく、密かに期待した成人式の日の同窓会にも彼女は姿を現さなかった。
交わした最後の言葉も何だったのか覚えていない。
彼女が塾を辞める日の授業終了直後のあの瞬間が綺麗な結末を迎えるための最後のチャンスだったんだと思う。そもそもあの噂を流されたあの日、僕にそんな中でも堂々とする勇気と、クラスメイトの冷やかしから彼女を守る強さがあれば未来はまた別のものになっていたはずだ。
僕は彼女の事を考えているようで常に世界の真ん中には自分を置いていたのかもしれない。
輝きながらも青さの残る恋だった。
気付けば目の前の自転車はついた傷が目立ってしまうほど綺麗に磨かれていた。仕上げに空気を入れてできる限り走っていた頃の状態に近付けていく。
僕は1度だけ彼女にこの自転車について話した事がある。
この自転車を初めて彼女に見せた時。彼女は僕の自転車を興味津々に見つめて「私の好きな色じゃん」と笑う。僕は知らない振りをして適当に受け流す。すると彼女はひとり言のように微笑みながら「なんか、嬉しい」とこぼした。
僕は焦ってはぐらかしてしまったけど、今思えば友達以上に思ってくれているサインだったのかもしれない。ただ僕がそう思いたいだけなのかもしれないけど。
彼女は今どこで何をしているのだろうか。
きっと優しい彼女の事だから空に漂う雲のように平穏で、日常の中から沢山の幸せを見出して夏の海のようにキラキラした日々を送っているに違いない。
そうであって欲しいと思う。
今、どこか街中で彼女とすれ違う事があってもきっとお互い気付く事なく素通りして行ってしまうのだろう。
でも、それでいい。
あの頃の僕も、彼女も、今はもう存在しないのだ。
お互い違う環境で10年もの時間を過ごしてきた僕たちはきっともうあの頃と同じようには話せない。
確かに存在したあの時間は僕の心の奥底にしまっておいて、必要な時にこうやって磨けばいい。
当時の僕たちと同じように"今"だけを生きればいい。
この自転車は僕の中学時代の楽しさや悲しさ悔しさ、その全てを乗せて走ってきた。10年振りの再会だったけど、最後の最後に綺麗にされて少しくらい喜んでくれているだろうか。
僕は自転車をガレージの中まで押して行って、さっきよりも取り出しやすい所で丁寧に立てた。今にも走り出しそうなその自転車のハンドルからぽたぽたと水滴が落ちる。
最後にガレージの入り口で振り返り、中学時代の青春に別れを告げた。
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