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【短編小説】  秒針

朝がいちばん死にたくなる。
さっきまで意識を置き去りにしていたはずなのに、目を開けた瞬間に今日も1日人間をやらなきゃいけない絶望感に包まれた。
スマホを確認するとまだ11時を過ぎたばかりで、今日は割と早くに目が覚めたと思う。

俺はSNSを開き、他人に見せびらかすような投稿で溢れたタイムラインを眺めながら眠気を覚ます。そして鉛のように重い身体を無理やり起こし、タバコに火をつけた。

カーテンの隙間から差し込んだ陽だまりが、この部屋に存在するものの中でいちばん綺麗で少しムカついた。
昨日買っておいたパンをむさぼって適当に動画を見漁っていると、アキからのメッセージが入る。

「今日4時前にはつく」

俺は"了解"とだけ返して身支度を始めた。
いつもみたいにカラー剤で痛めつけた髪にワックスをなじませ、ネックレスを着けてこの窮屈な箱から抜け出した。

新宿歌舞伎町。俺は今日もこの街で1日を終える。平日の夕方なだけあって本来の歌舞伎町の姿は影を潜めていた。
ドン・キホーテ横に退屈そうにスマホをいじるアキを見つけて呼び掛けた。

「遅れて悪い」
「お前おせーよ。まだほとんど誰も来てねぇからずっと1人で待ってたんだぞ。またアイツと遊んでたのかよ」
「今日は遊んでねぇよ」

アキとはキャッチ仲間でも特に気が合い、この街で知り合って以来ずっと行動を共にしてきた。
俺はタバコに火を付ける。さっきまでの負の感情はもうどこかへ消えていた。

「もう今日で最後か」

アキが横断歩道を渡って歌舞伎町に入り込んでくる人混みを見ながらつぶやいた。
アキは今日が最後の出勤だ。
ひと月前くらいにキャッチを辞めて会社員になる旨を聞かされた。
3年以上この街で同じ景色を見てきた仲間からの"就職"という言葉は俺の心を容赦なくえぐった。
でも今はそんな事考えたくはない。
最後のこいつとの出勤の時間を余計な感情に邪魔はさせない。

俺たちは相変わらず頭の中から適当に掴んだ話をそのまま外に放り出すように、最近遊んだ女の話やキャッチ仲間の噂話をして日が暮れるのを待った。
しばらく話していると歌舞伎町が活気付き、知ってる顔が増え始めた。

「そろそろ始めるか」

俺がそう言ってアキと事務所に向かう。
なんの張り紙もない雑居ビルの1室に荷物を置いて居酒屋のチラシを手に取り、俺たちの定位置に戻った。
歌舞伎町がいつものざわめきで溢れている。
今日も適当に客を引いて金を稼ぐ。仕事なんて言っていいのかわからないがこれで食っているのだから俺にとっては仕事だ。
今日はこの"ゴジラロード"と呼ばれる通りに20人前後のキャッチがいる。
そのほとんどと迷う事なく友達と呼べるような関係だ。

スピーカーから鳴り響く「新宿区での路上での客引きは禁止されています」という音声を黙殺して、こちら側に歩いてくる1人1人に目を配り手当たり次第声を掛けていく。
ここにくるまでに既に何人かに声を掛けられたであろう組を自分が説き伏せた時は気持ちがいい。

俺たちは完全歩合制だったから基本的に何をしようが自由だ。
気が向いたら客を引いて金を稼いで、それに飽きたら仲間同士で集まってタバコを吸ってくだらない話で笑い合って、仕事が終われば朝まで飲み明かす。
世間から見れば新宿で駆け回るドブネズミ以下の存在なんだろうけど、俺はこの仲間たちとこの仕事と、この街が好きだった。
この街は目の前の楽しいことだけしか見えなくて、心の枷全てをはずして外の世界へ置いて来れる。
歌舞伎町はイカレた街だ。でもそのイカレた街に俺の青春が散らばってた。

客の入りがピークに差し掛かる頃アキに声を掛けられた。

「今日何組引けた?」
「今んとこ2」
「同じじゃん。そしたら今日どっちが多く引けるか勝負しようぜ」
「いいよ。負けねぇよ」

アキの表情は楽しそうだった。
俺たちはそれぞれの場所で仕事に取り掛かる。
夢中になってたらあっという間に時間は過ぎて気が付けば居酒屋を探しているような団体はほぼその姿を消していた。
人通りの減ったゴジラロードの真ん中で、俺たちは成果を報告し合った。

「アキ何組引けた?」
「俺8組。いくつ?」
「俺5組。やっぱすげぇな。タバコ奢るよ」
「マジ?ラッキー」

アキは白い歯を見せ得意げな表情だ。
俺はコンビニで買ったタバコをアキに手渡して事務所へ向かった。

「アキそれだけ稼げるんだしまだ続けたらいいのに」
「まぁなー」

アキは空を見上げるようにして言った。俺はそれに続く言葉を待ったけどアキの口からは出てこないようだった。

それからアキを見送る盛大な飲み会が行われる居酒屋へ足を運んだ。
飲み会は今まで一緒に働いた仲間まで集まり、思い出話に花を咲かせた。
何人かで出し合って買った腕時計を贈られて、喜びを隠し切れずにいたアキの表情が印象的だった。

飲み会は当たり前のように朝まで続いて、俺は20年以上使って来た身体とは思えないようなおぼつかない動きで自分の身体を自宅まで運んだ。
ベッドに倒れ込んで天井を見つめる。
口の中にアルコールが残ってる気がした。今日最後のアキとの会話は覚えていなかった。

やっぱりこの部屋は嫌いだ。
さっきまでの時間が嘘のように気が滅入る。魔法が解けてしまったらしい。
二十歳になる頃都会でも田舎でもない地元を飛び出し、この部屋で一人暮らしを始めてもう4年になる。やりたい事があったわけでも、なりたい自分があったわけでもないが、東京に出てきたらきっとそれが見つかると思ってた。道標のような何かが。
でも実際に待ってたのはその場しのぎの人生で、時間が焼け落ちていくだけだった。
きっと俺には何かが足りないんだろう。いや失くしてきたのかもしれない。"今"にしか目を向けない日々の中で。
そんなことを考えながらいつの間にか眠りについていた。

俺は若干アルコールが残った身体で今日も向かってくる人混みをぼーっと眺めている。
別に来なくてもよかったが、家にいてもいいことなんて何もない。
昨日までならアキがいて家に帰るまで余計なことは考えなくてよかった。でも今日はいつもみたいに自分をごまかしきれない。

社会に仲間を取られたような気がした。
この街で働く人間は1年もしたらがらりと入れ替わる。
居酒屋の客引きも世間が思ってるよりもそれなりに将来を考えている。俺みたいに何年もだらだらと続けている少数派のバカを除いて。
ここに立っていると本当に色んな人間とすれ違う。
明るく染め上げた髪を揺らしヒールで地面を叩きながら歩くキャバ嬢。これから起ることを想像して浮ついた表情を浮かべる貧相な身なりの男。飲み会の会場に向かうであろう大学生。ホストに向かってる事が一目で分かるピンク色のバッグを背負った風俗嬢。
結局人間は皆孤独で、何かで孤独をごまかしてまた孤独を感じたら何かでごまかして死ぬまでそれの繰り返しなんだと思う。

歌舞伎町は抱える問題全てを外の世界へ置いて来れると思ってたが、そうじゃなかった。
存在を忘れているだけでそれはしっかりと自分の心を捉えている。ただここにいる間だけ心が麻痺しているだけだった。

そんな事を考えながらも、4年近くこの仕事を続けてきた身体から客を誘う甘い言葉が無意識に溢れ出てくる。
作業のように繁華街に慣れてなさそうな3人組の男を紹介先の居酒屋へ誘導した。
客を見送って店を出ようとしたところ、ホールに茶髪のポニーテールを揺らす見慣れた後ろ姿があった。

「愛美」
「あ、今日来てたんだ」
「今日うち来る?」
「あー、じゃ行こっかな」
「おっけ。じゃあ終わったら連絡して」

こんな雑な誘い方をして付いてきてくれるのは愛美だけだ。良いのか悪いのかわからないけど今の俺にとっては救いになった。
俺はドン・キホーテ前で愛美と合流して家に向かった。

愛美がベッドに腰掛ける。この陰鬱とした部屋を浄化するように愛美の柔らかな香水の香りが漂った。
愛美とは時々こうやって身体を重ねる関係だった。別にセフレにしたつもりはない。ただ、お互いに核心を避けるように自然と今の関係になった。
でもそれでいいんだと思う。無理やり枠に収める必要なんてない。男と女。ただそれだけだ。

目が覚めると同時に隣に自分以外の熱を感じた。俺はこの熱がこの上なく愛おしく思った。お茶で喉を潤しベッドに戻って天井を見つめる。愛美は起きているようだったけどなんとなくこちらからは口を開かなかった。

「ねぇアキくん一昨日で辞めちゃったんでしょ?」

想定していなかったセリフに俺は動揺しつつも言葉を返した。

「うん、就職するんだってさ」
「そうなんだ。仲良かったのにね」
「まぁ仕方ねえよ」

俺は"これからどうするの?"という質問を封じ込めるように、自分を守るために続けた。

「愛美は学校ちゃんと行ってるの?」
「失礼だなー。ちゃんと行ってるよたまに遊びに行くくらいで」
「サボってるじゃん」
「でも最近はほんとにちゃんと行ってるよ。いつまでもこうしていられないからね」

愛美から発せられたその言葉は矢になって俺の心臓を目掛けて飛んできた。
もうこの世界に俺が逃げられる場所なんてないのかもしれない。急に怖くなった。のうのうと生きてる自分が。世界の全てが。
返す言葉が見つからなくて、探す事も放棄した俺は訪れた沈黙に押し潰されそうだった。
すると愛美はおもむろに足元に散乱した衣類を手に取り袖を通し始めた。
「今日休みだろ?ゆっくりしてきなよ」
やっとの思いで吐いた言葉は自分の耳にもひどく情けなく聞こえた。
「あーごめん。今日これから彼氏と会うんだよね」
愛美の口から彼氏なんて言葉を聞いたのは初めてだ。とどめの一撃だった。鈍器で頭を殴られたような気がして目眩すら覚えた。1度手にしたものは変わらずそばにあると思っていたその考えが、傲慢である事に今になって気が付いた。
自分が生み出した負の感情に身体が蝕まれていくようだ。

愛美は自分が吐いた言葉の鋭さには全く気付かない様子で身支度を済ませる。
去り際愛美は壁を指差してつぶやいた。

「あの時計壊れてるじゃん」
「え?あぁほんとだ」

確か何年か前に元カノにもらったものだ。
おかしな時間を差して止まる短針と長針を尻目に秒針だけが変わらず動いている。スマホでしか時計を見ていなかったから今まで気が付かなかった。
"じゃあね"と言い残して部屋を出ていく彼女の背中を俺は布団から降りる事なく見送った。
1秒を刻む秒針の音が嫌になるほどうるさかった。



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