リフタ / Lifta 住んでいた人の話
今となってはリフタはパレスチナ問題の象徴的な場所だ。
パレスチナ人、(入植前の)ユダヤ人も特に揉めることなく人々は住み、そこにはコーヒーショップ、モスク、学校、そして刺繍のお店など普通の村に普通の暮らしがあった。1948年までは。
わたしがリフタを歩いていると一人佇んでいる初老の男性がいた。彼はわたしの気配に気づき後ろを振り向く。
サラームアレイコム。
アレイコムサラーム。
君はアラビア語がしゃべれるのか?
ごめんなさい。アラビア語は数単語しか知らないの。
そうかそうか、アハラン・ワ・サハラン。ようこそリフタへ。君はどこから?
アナ・ヤバニーヤ。日本からよ。
ここのことを知っているかい?
リフタがアラブ人の村だったっていうのは本で読んだわ。
わたしの故郷だよ。
絶句した。たった70年前のことだから、そんなことがあっても不思議じゃない。わたしのおばあちゃんおじいちゃんも太平洋戦争を知っているし、この村の様相が変わってしまったのはその戦争が終わってからのことだもの。
8歳の時だったよ。ここから出て行かなくちゃいけなくなったのは。
もちろんその時は出て行くなんて思っていなかったけどね。
避難だと思っていたし。お父さんが妹と弟を抱えるようにして一緒に逃げたのをはっきりと覚えているよ。あの上の道ジャッファロードからトラックに乗って逃げたんだ。トラックには他にも3家族がいたよ。
でもジャッファロードにはシオニストの兵士たちがいてなかなか逃げられなくてラマッラーに行くしかなかったんだ。あのトラックは忘れられないよ。
昔ね、あのトラックでまたリフタに戻る!って言ってたんだ。
実はね、トラックの持ち主だった人の息子がトラックをちょこちょこ新しくしてる箇所はあるけどずっと保存しててね。
古い伝統衣装を着てあれは彼のお父さんが一緒に逃げた日に着てたものだけど、それでそのトラックに乗ってわたしらに見せに来たんだ。覚えてるか?ってね。ラマッラーでのことだよ。僕も周りのみんなもそれを見て泣いてたね。
そう彼も言ったよ。
もちろん、このトラックでリフタに戻れないことは知っているよ。けどね、若い世代にもこのことを覚えていて欲しいんだよ。
リフタは1948年ナクバに纏わる538の1つの村にすぎない。でもね、この70年わたしはパレスチナ難民なんだよ、イスラエルに住んでいても。
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