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祖母の94年史⑤:田舎から見た終戦(20-21歳)

岐阜弁おばあちゃんが、大正15年から94年間を振り返るシリーズ。
今回は第5回、20-21歳の戦争が終わるとき(1945-1946年/20-21歳)です。
岐阜の田舎に住んでいた祖母の視点からみた戦争です。

1.実家へ戻る転機

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ー青年学校では、しっかり裁縫を教えとったけど、富岡には1年おっただけやった。わたしが金曜日に実家に帰って、月曜日の朝はよ、学校のほうに戻っていくやろ。悲して涙こらえて帰っとった。
 父が、私を哀れに思ったのかね。地元の有力者のところに行って、「娘がここにおるんで、転勤させてくれ」と頼んだらしいんや。そうしたら、実家の近くに戻ってこれた。いまの羽島駅のとこや。

 それで、そこの青年学校の先生になれたの。田舎の小学校の一部を借りて、終戦もそこで過ごしたよ。

ー結局、元の下宿先には1年おっただけやったけど、そこのおばあさんはマメな人やったでね。私が帰ってきてからも、実家まで遊びにござった。
どうやって私のことを探し出したんかわからんけど、うちにもよく挨拶に来てくだれたよ。

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図:兄の結婚式にて、本人は左から二番目(1946年・21歳)

2.戦争の記憶

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ー私は悲惨な思いしとらんでね。食べ物が十分にあったし、実家は羽島の田舎やで。空襲を受けたこともないねえ。
 ただ、青年学校に畑があったで、ある時そこの畑に行っとったの。そうしたら小さい飛行機が飛んできて、機銃掃射をバラバラっと打っていった。当たれば死ぬとこやったけど、当たらなんでよかったんや。いっぺんそういうことがあっただけでね、誰も死んだって話は聞かなんだね。
 空襲を受けとらんで、火事になることはなかったけどね。

ーじっきと岐阜の空襲があって、見に行きたいなあと思ったけど。
 木曽川の堤防があったやろ。堤防にあがっていくとね、名古屋のほうが空襲(※1)で、空が真っ赤になっとるのが見えたの。

 一宮はちょっと近いもんでね。焼夷弾が花火のように、きらきらきらきら、落ちていくのが見えた。空が赤くなっとったの。それを見ただけで、わたしらは空襲は全然なかったで。
 ただ、電気はつけれえへんで。空襲を避けるため、電気に黒いカバーをつけて、光が漏れないようにはしとった。

※1「名古屋のほうが空襲」太平洋戦争末期、1945年3月12日に、名古屋の中心市街地が、19日には名古屋駅が罹災した。5月には名古屋城も焼失。名古屋市の24%が焦土化し、壊滅的な打撃を受けた。

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3.終戦の感想

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ーやれやれ終わったなあ、てなもんだね。
 身内からは、招集にも出とらんかった。父はもう年やったし、兄も、出征に行ったけど終戦で1週間くらいで戻ってきた。兄は当時、一宮のほうで下宿しとって、そのあとそのまま警察官になったけど、50代で畑で心筋梗塞で死んでまった。
 家族も誰も空襲にあっとらんしね。姉たちもみんな田舎へばっか、結婚していったもんで。

ー玉音放送も、ラジオで聞いたよ。むつかしい言葉で、わからへんかった。天皇陛下がしゃべらっせるけど、何がなんやら、てなもんやった。
 みんな球場の前で泣いとった。私は、はよ戦争おわらんか、と思っとったから、泣く人はどういうことで泣くんかなぁと思っとったね。

ー戦争に勝てるとかなんか、思いもしなんだで。いっぺん、隣の家の川田さんにそう言ったら、「あんた、勝てれんと思っとったの!?」とびっくりしとった。
 わたしはみんな全滅になるで、もうあかんと思っとったけど、勝てると思っとる人もおったんやねえ。

 なんでそう思っとったか?そやねえ、そういうニュースがどこやらから入ってきとったんやろうね。
 下宿しとったおばあさんも、息子は二人とも戦死して、フィリピンの方はもうだめになって、遺骨も帰って来んで、と言っとったで。そういう話を聞いとったからね。

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図:戦後、流行の連写(21~22歳?)
今のプリクラみたいな感じでしょうか。可愛い。

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(人物名や地名は仮のものです)

次のお話は、22~27歳:おじいちゃんとの出会い(昭23~28)
いよいよおじいちゃんとの出会い。インテリであかぬけてるけど貧乏な未来の夫との、恋人時代が始まります!

おじいちゃんはもう亡くなってしまったので、おじいちゃんにもおばあちゃんのどこに惹かれたか聞いてみたかったですね。寡黙な人だったので、気になります。
(次回↓)


(はじめに説明はこちらから↓)


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