エゴと自己愛そして確かな愛と母性
#29かくしごと
こんな話
認知症の父の一時介護のため、
地元の田舎に帰省した杏が演じる娘の千紗子。
偶然出会った、怪我をし、記憶を失った少年を守るため、
彼女は自身がその母親であると偽る。
認知症の父、記憶を失った少年、そしてトラウマを抱える千紗子。
そんな3人がそれぞれが少しずつ心を通わせながら、
新たな家族の形を育んでいく物語。
ヒューマンミステリーでもあり、
同時に親子の絆を描いたラブストーリーでもある。
見手は常に倫理とはー。愛とはー。を問われる。
自分を救うということはエゴ?それとも自己愛?
辛い過去を背負いながら生き続けられる人は、
一体どのくらいいるのだろうか。
そして、その過去から自分を救ってくれるものが
倫理的、道徳的に反するものであったとしたら──。
人はそんな状況に直面した時、正義を選ぶのか、
それとも悪を選んでしまうのか。
自分を救うために取る行動は、それはエゴなのか、それとも自己愛なのか。本作を観ていると、常にそんな問いを投げかけられているように感じた。
思い出は忘れるのが幸か消えないのが幸か
過去の思い出。
それは必ずしも良いものばかりとは限らない。
認知症によって少しずつ思い出を失っていく父、孝蔵。
辛い経験が原因で記憶を失った少年。
そして忘れたくても忘れられない思い出を抱える千紗子。
思い出というものは、決して辛いことばかりではない。
良いことも悪いことも含まれている。
人は、記憶に囚われてしまう。
”この思い出だけ”忘れるという選択はできない。
忘れることが幸せなのか、それとも忘れられないことが幸せなのか。
本作を観て、私はその問いについて深く考えていた。
そこに少しでもエゴがあるのなら
千紗子は少年と血縁関係があるわけでもなく、
戸籍上でも親子ではない。
しかし、実の息子にしてあげられなかったことや、
注ぎきれなかった愛情を少年に注ぐうちに、
彼女は少年に対し本当の息子のような愛が芽生えていく。
それは、社会的・倫理的な範囲を超えてでも
「この子を守りたい」という強い思いからである。
認知症の父・孝蔵も日々多くのことを忘れていく中でも、
少年に対して新たな感情や愛着が生まれていく。
一方で、少年の実の親は行方不明の息子を探そうともせず、
暴力や権力で少年を支配し、利益のための存在として見る。
どちらが本当の親かを問われているように感じるが、
ここで重要なのは、どちらであっても”大人のエゴ”によって
”罪のない子供が大人に利用されているという現実”である。
たとえ本当の愛が芽生えても、
それが千紗子の過去のトラウマを払拭するためだとすれば、
そこにはエゴが潜んでいるのは確かなのだ。
実際、作中で千紗子は少年に自分が母であるという嘘だけでなく、
“お母さんって呼んで”と言ってしまう。
愛とエゴの境界線は、非常に難しい。
どんなに純粋な愛情で正義であっても、そこにエゴが潜んでいるなら、
”それは本当に少年のための愛なのだろうか”
私はこの問いを抱えながら本作を見た。
だとしても、そこには愛と母性があった
しかし、いくら法や倫理に触れているとしても、
「ただこの子を助けたい」という千紗子の強い想いと、
そのための驚くほどの行動力。
その姿は、観ていて胸が熱くなる。
「どうか、このままこの幸せな時間が続いてほしい」と
願わずにはいられない。
嘘や本当、エゴや自己愛といった要素をすべて取り除いても、
千紗子が少年に対して抱いた「愛と母性」は
確かに存在したのではないだろうか。
その姿は、美しく、尊いものである。
そして、千紗子のこれらを全て理解し、
その想いに応えるような少年のラストシーンは、
胸を締めつけられ涙が流さずにはいられなかった。
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