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三浦綾子「塩狩峠」

「聖書に書かれている出来事が“本当”かどうかはどうでもいい。ただ、イエスキリストの生き方そのものに感銘を受けるのだ。」

宗教という言葉からイメージしてしまう胡散臭さや、聖書に書かれていることに真実味のなさを感じていた私に、信者の先生が教えてくれたことだ。

そのような視点で聖書を見返すと、少し違って見えた。

そこに書かれている生き方はとても真摯で、魅力的な言葉が胸をうった。
あなたはどう生きる?と問われている気がした。


三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」は、明治末期の史実をもとにした小説である。そこには、聖書の言葉に沿った生き方が描かれている。

私たちはいつか必ず死ぬものだが、どのように生きて、何のために死ぬのか。
小説内では、“犠牲”の精神を持つ生き方が繰り返し呈示される。

“犠牲”といっても、私たちが日頃ネガティブなイメージで用いる“犠牲”とは異なるし、美談として崇められるような価値の下がった“犠牲”でもない。ただ、友(隣人)のために、自分の一番大切なものを差し出す切実な覚悟が描かれるのだ。


例えば、主人公信夫の幼少期にこんな一幕がある。

1日高熱で寝込んだ信夫が早く良くなるように、妹の待子がお祈りをする。お人形をお兄さまにあげるから早くなおしてください、と。その赤い振袖のお人形は、まだ小さな待子が誰にも抱かせないほど大切にしていたものだったのだ。

私たちの身に置き換えて考えたとき、そんなことができるだろうか。

一番大切なもの。それは命や、家族や、好きな活動かもしれない。アニメやアイドルかもしれない。待子のように子供のころは、玩具だったかもしれない。涙が出るほどに好きでどうしようもないもの。それを差し出すことができるだろうか。


三浦さんの筆力によって、信夫や待子をはじめとする登場人物たちは、とても魅力的に愛らしく描かれている。その生き方は、日々の絶え間ない信仰に下支えされている。信仰を続けるに足る人としての強さや優しさ、信仰からうまれる心の美しさや明るさ、愛するもののために一番大切なものを差し出す“犠牲”の精神。
読み進めるほどに魅了され、心満たされ、まるで読んでいる私も家族や友人になったかのような気持ちを味わえる。


そして、そんな日々の先に迎える究極のラストシーン。


信夫のとる行動に、彼ら彼女らと歩みを共にしてきた読者は、落涙を禁じ得ない。切実なまでの“犠牲”の覚悟が、愛が、私たちの心を揺さぶる。

こんな真摯な生き方が本当にあったのか。こんな強く美しい心があるのか。深く憧れ、激しい感動を体験した。


小説でのラストシーンが終わっても、彼ら彼女らの人生は現実の世界で続いたはずだ。

あとがきによると、執筆時、すでに血縁の人の行方はわからなかったそうだ。


本小説に登場するような人たちが実際にいたのであれば、どうか、その後の信仰生活を全うされましたように、この世的なものに挑みながらも、静かで満たされた毎日でありましたように、と、ただ願うばかりだ。

彼ら彼女らのことが大好きになり、その生き方に感銘をうけ憧れる読者の一人として。


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