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疎外感を感じ続けて

「人生とは紙一重なるもの」なんだなあ…と思う今日この頃。改めて「今の環境の今の状態で」仕事に就いていたとしたら、多分、その後の人生は目も当てられないものになっていて、就職氷河期世代問題で問題視されているような状態になっていたと思えてならない次第(客観的事実として。その問題を揶揄する意味はない)まあ、あの時は「指導してくれる人達」がいたからなんとか「土台」ができてその後もなんとか乗り切れて(はいないから辛いのか…)生き永らえてこれたのだと思う。この「土台」がなく「今の環境の今の状態で」仕事に就いていたとすれば、「生きる糧」は得られることはなかっただろう。今以上に一方的に「責められ」いや「丸投げ」されて「否定され」続けていたと思う。

「たら、れば」の考え方だから必ずしもそうなっていたとは言えないだろう。また、「自分でやること」が求められるのは当たり前で、精神的に追い込まれることになったとしても「自ら行動」はしたと思う。けれど、責められ」いや「丸投げ」されて「否定され」ることになっていたとしか思えない。「教えることのできない人」の元ではそうなりがちではないだろうか。「自ら行動」することは必要なことであるのは言わずもがなだけれど、その為には「ある程度、教えること」は必要でしょう。仕事に就き始めた頃の「土台」はあくまで「土台」であってむしろそこから先に広がっていくことの方が多い。そのことに対して「教えること」は必要なことではないのか。これまでのことを振り返ってみると…そもそも「土台」から先の広がりの部分が「なんとなく増えてきた」ことばかり。そりゃそうだ。その「なんとなく増えてきた」ことは、他の誰もわからないことなんだから。「なんとなくやらせる」のは必然。人間とはそんなもの。だから、しょうがない…とはならない。

「貴方にとってのしょうがないは、私にとってのしょうがない」ではない。

誰も頼れる人がいないことの証明ではないか。それでも頼ってみるとする。返ってくる回答は全て「他責的」なものばかり。そりゃそうだ、聞かれてもわからないことや決められないことの方が多いのだから、頼ろうとしたところでそんな反応にもなる。人間とはそんなもの。だから、しょうが…以下同文。そうならない為に常日頃コミュニケーションを取り続けることが必要であって、それが足りなかった結果、自分で自分を苦しめることになっていることは認識していて反省している。けれど、やっぱりどうしても「コミュニケーションとは、片方の側だけの問題なのか」と思えてならない。「他責的」な反応が返ってくるのは、私が至らないことが原因なんだろう。でも、本当に全てが全て私だけの責任なんだろうか。

「教えることができない」「接し方がわからない」「口頭での指示しかできない」

言葉のあやなのか、開き直りなのか、申し訳なさの現れなのかわからないけれど、そんなことを公言され続けてきた…「私の存在そのものを見て見ぬふりをし続けてきたのかな?」と思えなくもない。今振り返ってみると仕事に就いた当初は違う方が指導員として就いて下さっていたのは…「教えることができない」「接し方がわからない」「口頭での指示しかできない」と公言するような人と直接相対することを避けるためだったのではないかと思うけれど、この時からちゃんと相対していれば「責められ」いや「丸投げ」されて「否定され」続けることもなかったんじゃないかって思えてならない。

「貴方は、指示系統が違うから」なんてことも言われなかったと思う。言外に「私は関係ない」なんて意味が含まれた言葉を。

これこそ「たら、れば」の世界であって、実際にそうなっていたとしてもその後の人生は目も当てられないものになっていて、就職氷河期世代問題で問題視されているような状態になっていたと思うけれど、「人間性」の面には影響は及ぼしていなかったんじゃないかって思う。

「責められ」いや「丸投げ」されて「否定され」続けているのは、「言うべきことは言う」ことをしてこなかったことの代償なんだろう。けれど、こんな状態で「言うべきことを言えるだろうか」できないって。そんなことをしていれば間違いなく今以上に追い込まれていた。今、それでも何とか踏ん張れてこれたのは「年の功」のお蔭。中庸で穏便な対応をしてきたからこそ「年の功」を得ることができた。そうした対応をとらなければ「生きる糧」は得られず「年の功」も得られなかった。けれど、その代償として「責められ」いや「丸投げ」されて「否定され」続けていて、それを改めようとしようものなら「素知らぬふり」をされ「キツイあたり」をされている自分が情けない。今まで「問い直してこなかった人間が問いなおしてきた」わけだから、そんな反応にもなることはわかっている。人間とはそんなもの。だから、しょうがない…とはならない。

「貴方にとってのしょうがないは、私にとってのしょうがない」ではない。

10月同様11月も時が経つのが長くなりそうな感じ。仕事は限界に近くないふりをし続けるのにもう疲れた。「自分の為に」だけで続けるのも限界。自業自得な面があることは認識し反省もし次に生かしていかなければ駄目だけれど、「使い勝手よく使われてきた」んだなあと痛感。多分、おそらくは一生使用人の立場ではあるけれど今の自分の置かれている状況は「こんな場所の為に自分の人生を捧げることを是とするのか否とするのか」を判断するその境目にいて、もういい加減、腹をくくるべき時期にしないと「心身ともにおかしくなって、自分で判断ができない」ことにもなりかねないような状態。そんなことを考えるレベルくらいにはキツイ。気付いている人は気付いているみたいだけれど、関わり合いたくないのか何にも言ってこない。その程度の関係性しか作れてこなかった事が情けないし、それがまた自分を追いつめてしまう。

月末の入院明け…からなんて言い訳で、苦しい状態でも向き合わなければ「何も得られない」環境だから今の時点でも「自分の為に」やらざるを得ないことが苦しいし、悔しいし、悲しくて堪らないけれど「今は、今の自分がやれることをやるしかない」

辛いけど、自分を守る為に。
何とか歯を食いしばって。

「逃げることは大事、逃げないことも大事」なことは忘れないようにしたい。

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