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身振りをなぞる──歴史の経験と認識についての試論

1 岡山大学の岡本源太です。本日は田中純先生の『過去に触れる』*1に触れて触発された考えをお話しして、議論のきっかけを提供できればと思います。
 本書は「歴史をめぐる私記」として書かれたとのことで、「私記」という形式でなければ叙述できない「経験」の水準こそがとりわけ問題になっており、まさに感性的経験の分析が本流である美学を専門とする身としては、大いに教えられ、また触発されることになりました。
 たとえば、いくつか思いつくままに述べますが、ホイジンガらから引き出される「過去の色」の議論、つまり、はっきりとした形態よりもまず色彩として、雰囲気や情感として、歴史が経験されるとは、西洋美学史を貫く線描彩色論争を念頭に置くと、逆にこれまで歴史が「線」として考えられてきたことに思いあたり、その意味やニュアンスを再考したくなります(I-1, IV-2)。また、ゼーバルトの写真散文において、古写真のように摩滅し擦り切れて消滅していく人物たちの姿を通して人類史が自然史へと回帰していく、との議論については、すぐさまドイツ・ロマン主義の廃墟の美学を思い起こしますが、それは、ここ最近の英語圏での「ビッグ・ヒストリー」、つまりもっぱら統計データで宇宙の誕生から現在の人類文明まで、自然史と人類史を接続してしまうという歴史学の一つのありかたに対して、歴史的事実へのもっと繊細なまなざしをもつ歴史叙述のありかたを考えさせてくれます(III-1)。あるいは、バルトの「温室の写真」をめぐる探究と考察は、僕自身のはじめて活字化された論考がそれに関するものだっただけに、たいへん教えられました。とくに「伝記素」から「歴史素」への敷衍は、単線的ではない、エピクロス主義的な偶然の分岐を感覚経験からたえず生じ続ける歴史のありようを垣間見せてくれました(III-2)。

2 そのように、本書を読みながらいろいろと考え込むことになったのですが、それをあれこれと散漫に述べるよりも、本日は一つ、僕がもっとも強く注意を惹きつけられた点を取り上げ、僕からの問題提起の手掛かりにしたいと思います。
 それは、本書で「身振りをなぞる」という身振りが、執拗に繰り返されているところです。もちろん、まずもって本書は、鴨長明の『方丈記』に倣った堀田善衞の『方丈記私記』に倣って、「私記」のかたちで書かれています(跋)。しかしそれだけではありません。クラヴェルやアーシアをめぐって、彼らを追う田中先生のアーカイヴ調査の旅が彼らふたりの旅の行跡と重なっていたと言い、クラヴェルの評伝『冥府の建築家』もクラヴェル自身が自伝を書こうとしていたその身振りを受け継いで書かれたとされ、さらには、田中先生は、クラヴェルの肉声を強く感じたテクストを自分の肉声を通して生きた声に戻すべく、トークイベントで朗読をおこなっています(I-2)。ついで、アウシュヴィッツ訪問について、展示室の写真を見ることが虐殺者のまなざしをなぞることになるのだと気づき、また屋外では足下の地面ばかりを見ていたみずからの身振りがかつて死体焼却の任にあったゾンダーコマンドーたちの身振りに一致していることに事後的に気づいて、そのことを本書に書き記しています(II-1)。また、ゼーバルト『アウステルリッツ』をめぐる考察に関して、そのための田中先生のアーカイヴ調査が『アウステルリッツ』の主人公の身振りをなぞるものであったことを確認し、さらにはそれが作者ゼーバルトの身振りがもとになっていると指摘しています(III-1)。加えて、バルトの「温室の写真」の探索についても、バルトの書斎写真からそれらしき部分を拡大する身振りを、温室の写真を引き伸ばしたバルト自身の身振りの再演だとしています(III-2)。まださらに、田中先生がかつてベンヤミンの自殺したポルボウで花を摘んだという思い出が、ポンティニーで撮影された花を摘むベンヤミンの身振りを知らず知らずに真似ていたのだと、捉えなおされてもいます(IV-2)。ほかにもまだまだありますが、最後にもう一つだけ、デヴィッド・ボウイがアルバムに楽曲を編むように自分のテクストを書物に編んできたのだと記されて、本書は締めくくられています(跋)。
 これらの身振りをなぞる身振りは、かなり自覚的になされたものもあり、また事後的に気づいた場合でもかなり意識的に記述されています。にもかかわらず、奇妙なことにと言うべきでしょうか、結論のテーゼではいかなる言及もありません。「歴史経験」は過去のスペクタクル的な再現ではないし、過去そのままの追体験でもない、と本書で繰り返し確認されているだけに、では、この身振りをなぞることは、どのように理解できるでしょうか。
 以下、この身振りをなぞるという、本書での田中先生の特徴的な身振りに注目したいと思います。

3 ですが、その前に一つ前置きです。本書を読みながら、お読みになった皆さんの多くもそうかもしれませんが、僕はたえず僕自身の「歴史経験」を思い返していました。ふだんはおもにルネサンス時代をフィールドにしている身として、僕にも「歴史経験」と呼べるような経験があります。ただし、あらためて考えてみると、僕が美学者だからでしょうか、アーカイヴでマニュスクリプトに触れているときよりも、あちこちの美術館や聖堂などで芸術作品をまえにして、そのような感覚を覚えたことが多いように思います。また、実を言えば、マニュスクリプトでも初版本でもない、現代の最新校訂版のジョルダーノ・ブルーノのテクストを読んでいるときにも、強烈な歴史の現前を感じたことがありました。ブルーノの手書きでもなければ、16世紀当時の出版物というわけでもなく、完全に現代の活字で現在の紙に印刷されたものです。そういえば、芸術作品の場合でも、当時のそのままの環境に置かれているものもさることながら、美術館の近代的な白い空間のなかで一作品と向かい合っているときに、強烈な歴史の感覚を覚えることがあったように思います。
 そうしてみると、本書で考察されている歴史経験の生起する場とは少しずれたところで、僕はそのような経験をしているのかもしれません。以下の僕の話は、この微妙な差異のまわりをぐるりと経巡るものになります。

4 さて、問題は身振りをなぞるということです。過去のそのままの追体験も過去のスペクタクル的な再現も斥けられる本書で、なぜ執拗に身振りが反復されるのでしょうか。
 すぐさまわかるのは、本書で「身振り」という用語が、最終的には、歴史の「逆撫で」との関連で語られていくことです。つまり、歴史はすでに終わってしまった出来事の記述ではなく、それはいまだ終わっていないのだと、過去をサスペンスの状態に引き戻すところに歴史叙述の目論見があり、そのように逆撫でして引き戻す歴史叙述者の身体性こそが「身振り」と名指されています。
 だからこそ、たとえばアウシュヴィッツの写真について、それを撮影した虐殺者たちのまなざしにあらがって、意図されざる細部にまなざしが注がれることになるのでしょう。抵抗するためにこそ、あえて同じ身振りを反復しながら、それを変形するのです。
 ですが、身振りをなぞるのは、それだけのことなのでしょうか。これだけでは、追体験や再現のたぐいとさほど異なるようには思えません。

5 そこで、少し別の補助線を引いてみましょう。身振りをなぞることは、僕のようなルネサンスの研究者には馴染み深い現象です。これこそ、「古典」と呼ばれるものをまえにしたルネサンス人の特有の身振りだからです。パノフスキーはこの現象について、中世ヨーロッパにおけるように過去をそのまま連続的に引き継ぐ「権威」のありようと、ルネサンスのヨーロッパに見られたような断絶してしまった過去を批判しながら復興する「古典」のありようと、この二つを対比しながら論じています(「人文学の実践としての美術史」)。ここからすれば、「逆撫で」として身振りをなぞる身振りは、断絶した過去を批判し復興する「古典」の身振り、過去を「パラダイム」──倣うべき手本──と見なして反復し継承するルネサンス人の身振りになぞらえてみたくなります。

6 このとき、実は過去の認識は問題になっていません。これは僕自身がイメージ論に関してつとに問題にしてきたことの一つなのですが、「認識」と「経験」は別のものなのです。アガンベンも指摘しているように、西洋の伝統的な認識論においては、認識は知性のはたらき、経験は共通感覚のはたらきでした(『幼児期と歴史』)。認識は知識に、経験は知恵に関わる、とも言えます。本書は、過去の「認識」に歴史の「経験」の次元を回復しようとしている、と僕の観点からはまとめてみたくなるのですが、認識だけであれば経験は必要ありません。実際に経験せずとも、僕らは多くのことを知ることができます。逆に、経験は、それ自体は認識を目的としていません。なにも知るためだけに僕らは経験するのではないのです。経験は、実のところ物語と伝承の問題です。経験を積むとは、手本となる他者たちの身振りを継承するということです。経験を積むことで、時間を飛び越えて、歴史的共同体が形成されるのです。

7 僕としては、本書で田中先生が取り上げているバルトの「伝記素」の「エピクロス的運動」も、ここに関連づけて理解したいと考えています。バルトの言う「未来の肉体に出会う」とは、僕からすれば、たんに未来の読者が過去の著者を「認識」するということではなく、その言語を受け継ぎ、体現し、受肉してしまうことです。それが「経験」であり、身振りの反復です。実際、バルトの『サド、フーリエ、ロヨラ』での伝記素は、読者に彼らの言葉遣いを、身振りを、その生の断片を反復させるものとして論じられています。これがまたバルトの言うテクストの快楽でもあります。
 ただし、それは言葉遣い、身振りであって、サドを読んでサディストになるとか、フーリエを読んでファランステールに入るとか、ロヨラを読んでキリストのヴィジョンを見はじめるなどの、言葉の内容や思想の問題ではありません。つまり、追体験や再現が問題ではないのです。『過去に触れる』では、ゴダールに関して、ニーチェやヴァールブルクも陥ったような「歴史が自伝と化してしまうナルシシズム」の危険が警告されていますが、その批判はバルトの伝記素──テクストの快楽──には当たりません。
 歴史素としての写真についても、写真がバルトの言うように被写体と見る人とを「臍の緒のようなもの」でつなげるのだとすれば、それはもちろん母子関係を形成するということであり、その人の子供として自分が生まれるということでしょう。子供が親の言葉と身振りを真似て人間性を獲得していくような事態が、歴史素によって引き起こされる──だからこそ田中先生は本書で、写真をめぐって、これほど執拗に身振りを反復しているのではないかと、思えてきます。

8 そろそろ核心に踏み込みましょう──なぜ身振りをなぞることが、歴史の逆撫でになりうるのか。それよりもむしろこう問いましょう──歴史はどこにあるのか。失われた過去の時空のなかでしょうか。歴史家の叙述のなかでしょうか。僕としてはこう答えたくなります──反復されるその身振りそのものが歴史なのだと。だからこそ、過去に触れるという生々しい経験が起こるのだと。
 かつてベルクソンが論じたように、無は存在せず、したがって不在とはたんにわたしたちの期待していたのとは違う存在だというにすぎません(『創造的進化』)。本書を読みながら僕は、過去に触れるという経験、過去のメトニミー的な不在の現前と言われているものに関してほんとうに争点になるのは、真実の過去、過去の史実とされるもの以上に、この「わたしたちの期待」なのだと考えていました。なにが期待されているのか、なにが期待されていたのか、なにが期待と違うのか。

9 歴史の逆撫でによって、希望が生まれる──僕は田中先生のこの主張に同意し、共感しています。ですが、その希望はどうして生まれるのか。それは、逆説的に聞こえるかもしれませんが、わたしたちの期待が裏切られるからだと、僕は答えましょう。身振りをなぞることで問題になっていること、また過去に触れ、歴史を経験する──「認識」するばかりでなく「経験」する──ことで問題になっていること、それはたんに現在を生きるわたしたちが、現代的な意義を、失われてしまった過去の出来事に与えなおすことではないと、僕は考えています。
 僕が自分の研究のなかで直面してきたもう一つの問題、すなわち「アナクロニズム」の問題が、ここに関わっています。僕がディディ=ユベルマンやアレクサンダー・ネーゲルらよりもルイ・マランとユベール・ダミッシュから示唆を汲み取って引き受けてきたアナクロニズムの問題は、しばしば混同されている「事後性」の問題とは、根本的に異なるものです。フロイトが理論化した「事後性」は往々にしてベンヤミンの「逆撫で」と結びつけられていますが、現在から過去を振り返って新しく意味づけるという事後性は、少なくとも僕の理解するアナクロニズムではない、あるいはもう少し穏当に言うと、それはアナクロニズムの片面でしかありません。
 アナクロニズムの問題については、現在のわたしが過去に意味を与えることではなく、むしろわたしのほうが過去にいて、取り残されている、という事態を考えなければなりません。だからこそ、その反面で、過去とされていた事物が現在や未来になるのです。どういうことでしょうか。つまり、これは、事物の歴史性と同時に概念の歴史性が問題になっているということです。僕らが考えるために使用する概念は、歴史的な形成物です。概念は事物となんら変わらず、過去からの経緯をひきずっています。だからこそ、アナクロニズムにおいて、わたしの見ている事物よりもわたしの考えている概念のほうが古びていることがありうるのであり、事物──写真や作品やもろもろ──のほうがわたしをその概念のくびきから解放してくれることが起こるのです。わたしたちの誤った期待は裏切られ、そうして事物はわたしたちに未来として現前するのです。

10 あらずもがなの抽象的なコメントに終始していたかもしれません。ですが、先に少し触れたような僕自身の歴史経験の生起した場に鑑みるに、過去に触れることの問題は、本書で言われているメトニミー的な事物の歴史性とともに、それを眼前にしたわたしたちの概念の歴史性にもあるでしょう。だからこそ、アーカイヴの手稿ばかりでなく、現代の最新校訂版テクストを読んでいても、過去に触れるという歴史経験が生じうるのではないでしょうか。そのことを、僕は本書に触発されて、いくぶん理論化してみたかったのです。
 身振りをなぞる経験こそ歴史の在処だとすれば、それはそこで事物と概念の二重の歴史性が交差し、齟齬を来すからです。それはニーチェやヴァールブルクの狂気が示したような、「歴史の自伝化」ではありません。自伝化し主体化しようにも、わたしたちの言葉も概念も過去から受け継がれたものであって、事物と同じように概念には歴史があります。僕が事後性に懐疑的で、アナクロニズムを重視しているのは、事後性は事物のほうを過去の痕跡として分析する一方で、わたしたちの概念をそのまま現在に閉じ込めてしまうからです。事後性によって過去のアクチュアリティを回復しようとしても、実は現在性を装っているだけの過去の概念に回収しているだけではないのか、との疑念が僕にはあります。それゆえ、歴史の逆撫で、過去のアクチュアリティの回復、希望の発生は、わたしたちの概念の歴史性の分析、わたしたちの概念の破壊、わたしたちの期待の裏切りを伴わなければ、果たされないのではないか──そのように僕からは問いを投げかけて、ひとまず話を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。*2

*1 田中純『過去に触れる──歴史経験・写真・サスペンス』、羽鳥書店、2016年。https://www.hatorishoten.co.jp/items/4874205

*2 合評会「田中純『過去に触れる』に触れて」、東京大学、2016年11月28日(月)における口頭発表。