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謎の男・平澤哲雄の情報まとめ

 先日投稿した以下の記事でも紹介した平澤哲雄に関する情報をまとめたブログに関して非常に勉強になったが、特に気になった点を以下のようにメモとして残しておきたい。

①1920年に平澤が南方熊楠を訪問している。ただし、南方は忙しかったため会っただけで終わった。

②平澤は親戚でもあった有力な政治家・三土忠造のつてをたどって南方と交流を持った。

③三土は南方植物研究所の設立のため寄付をしており、三菱からも寄付を受け取った。ここでひとつ分かったのは、以下の記事中にも引用した岩田準一あての書簡(昭和6年8月20日南方記)にある「小生(注:南方熊楠)岩崎家より研究費一万円もらえり」は三菱財閥であったということだ。南方は岩崎氏(岩崎小弥太か?)とも面識があったらしい。

④平澤の妻は「吉村勢子」という人物らしい。吉村は南方と多くの書簡をやりとりしていた人物だが、平澤の妻であることは知らなかった。吉村に関しては上記に紹介したブログにもまとめられている。この吉村に関しても不明点が多いので引き続き調査が必要であろう。

⑤平沢の追悼会の案内葉書が南方熊楠顕彰館に保存されているらしい。この資料はぜひ私も現物を確認してみたい。(行くタイミングがあるかどうかという問題)この資料によると、1925年10月11日に本郷赤門前喜福寺で平澤の追悼会が開催されることになっていたようだ。以下の記事で平澤の没年を1925年11月以前に亡くなったと推測したが、この資料から平澤は1925年10月11日以前に亡くなってことが分かる。平澤の亡くなった年月日に関して大分分かってきた。私の推測では平澤の生年は、1894年もしくは1895年であるから平澤は30歳前後で亡くなったことになる。

また、この案内葉書には追悼会の発起人が書かれているのがおもしろい。発起人は以下の人物であるようだ。元のブログから引用してみたい。

西田幾太郎、帆足秀三郎、床次竹次郎、大山郁夫、荻野定一郎、金子堅太郎、金子馬次、吉江喬松、団伊能、南方熊楠、マダムメタクサ、小島茂雄、越英之助、遠藤隆吉、坂井徳太郎、北沢楽天、紀平正美、北昤吉、三土忠造、塩沢昌貞、エンチレール (いろは順)

元のブログでも指摘されているように、聞いたことある人物もいる一方で聞いたことのない人物も多い。これらの人物と平澤の関係性が気になるところだ。彼らとの関係性をたどることができれば未だに謎の多い平澤のことが少しずつ分かってくるだろうか。引き続き課題としていきたいと思う。

最後になるが、もうひとつ情報をまとめておきたい。平澤はタゴールが来日した時に同席していたらしいが、このことは以下の記事に触れられている。私も以下の記事を通してはじめて知ったので参考のために載せておく。


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