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『三酔人経綸問答』中江兆民を読む①―近代史理解の見取り図

 先日ある読書会で『三酔人経綸問答』中江兆民を読んだので何回かに渡ってこの本の感想を記事にしていきたいと思う。私が使った資料は下記のブログに掲載いただいたので、そちらを参照していただきたい。

 ここでするまでもないかもしれないが、まずはこの本の内容を簡単に紹介したい。この本は、西洋の先端思想を勉強して民主的な政治を理想とする洋学紳士君、軍備を拡張して勢力圏を広げようとする豪傑君、外でなく内に目を向けてそこに暮らす人々のための政治を考えるべきだと考える南海先生の3人がお酒を飲みながら語り合うというものである。

 この洋学紳士君、豪傑君、南海先生と表現されている3通りのパターンは当時の言論空間を反映しているように思える。たとえば、洋学紳士は争いの絶えない「武備機関」を基礎とした社会から経済を中心とした平和な「生産機関」を基礎とすることを主張していた徳富蘇峰のことが念頭にあったと思われる。蘇峰と兆民の間には深い交流があった。(注1)また、豪傑君は、自由民権運動の衰退後にユーラシア大陸への進出を目指したアジア主義者や急激なヨーロッパ化に異議を唱えた三宅雪嶺や陸羯南ら国粋主義者、南海先生は懐疑的な保守主義者でもある兆民の一側面を反映した人物であると言えるだろうか。

 兆民が意図したものではないが、この区分は時代をこえて私たちが近代日本史を考える上で重要な見取り図を提供してくれる。特に洋学紳士君と豪傑君の間の綱引きは歴史の中でくりかえされる。この本の中で洋学紳士君は進化論に心酔しているが、後の時代にはその関心は社会主義、民本主義、マルクス主義へと移っていく。豪傑君は思想を大きく変えないものの、担い手を変えてその思想は継承されていく。この綱引きの結果、最終的に豪傑君的な思想が優勢となり30年代の戦争にすべりこんでいく。また、この見取り図にあてはまるような対立が現代でも繰り返されているが、この本が書かれた1887年時点で現代にも通じる見取り図が提供されていたことは驚きだ。

 当然ながらこの見取り図におさまらない場合も多い。上記で洋学紳士君のモデルではないかと紹介した蘇峰の思想の変遷は、洋学紳士君と豪傑君を対立したものとして考える見取り図に対して疑問を投げかける。蘇峰は洋学紳士君に近い思想を持っていたが、後に皇室主義・国家主義・膨張主義という豪傑君に近い思想に乗り換えている。この思想の変遷に関して。『徳富蘇峰終戦後日記』で以下のように語っている。

(前略)自然期せずして、英国ミル、グラッドストン、またマンチェスター派のコブデン、ブライトなぞの意見と一致する点があって、平民主義と平和主義とを以て、天下に呼号した。その現れが『将来之日本』であった。しかるに現実の世界に立ち入って見れば、自分決めに決めたる世の中とは、全く異なりたる世の中を見出した。如何なる主義主張が、公明正大であっても、それを実行するには、背後の力の必要を認めざるを得なかった。マンチェスター派が、上品なる議論を、天下に公表して、差支えなかったのは、その背後に英国海軍の一大勢力がある為めたる事を、漸(ようやく)く暁(さと)った。いわば武力の裏付けがある為に、初めて平和主義が、物を言うことが出来た。(中略)それで自分は、自ら余りに自分の考えが、単純すぎて、世の中の光明の一面のみを見て、暗黒の多面を看過したことに、漸く気が付いた。

 蘇峰は上記の引用部分で、「平和主義」の裏には軍事力が前提となっていることに気づいたことが述べられている。この蘇峰の思想の捉え方は、『三酔人経綸問答』で提示された洋学紳士君/豪傑君という対立する見取り図にあてはまるものではなく、洋学紳士君と豪傑君が表裏一体になっているものである。

 『三酔人経綸問答』で提示された見取り図でとらえられない部分は多くあり、そのはみ出した部分を排除してしまうのは歴史を考える上での「ゆたかさ」を手放してしまうことにつながる。しかしながら、歴史や現代を考える上での入り口として、また、見取り図があるからこそ逸脱する部分が映えると考えると、『三酔人経綸問答』の見取り図は有効であると思う。

(注1)『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』高野静子(藤原書店)が詳しい。
(追記1)先日ツイキャスというサイトで雑談した内容がベースになっている。

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