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在野研究は辛いよー民俗学研究者・中山太郎の苦悩

 先日、古本の即売会で『日本民俗学論考』中山太郎(一誠社, 1933年)を購入した。中山太郎は民俗学の研究者で『売笑三千年史』、『日本巫女史』などの著作があり、柳田国男の積極的に取り組まなかった領域で仕事を残したとして知られている。この本の序文を読んでいると、中山の伝記的な事実や研究態度など私の知らなかったことが多く含まれていたため一部をいくつかに分けて以下に引用してみたい。また、この文章を読むことで現在の在野研究の問題を考えることにもつながると思う。

今の私の心境を露骨に言へば、『何でも構はない、書けるだけウンと書いて置け』の一句に盡きるのである。実際、私の書くものが良いか悪いか、そんな事を問ふ處ではない。更に民俗学の範疇を超えているか否か、そんな事も論ずる限りではない。ただ精限り根限り書きさへすればそれでいいんだと云うのが、私の今の気持なのである。併し私をして、斯う考へさせるやうになつたのは、また相当の理由が存するのである。その第一は私の健康である。(中略)私の宿痾である糖尿病の一進一退にも由ることではあるが、どうしても神経過敏になつて、殊によると父からの迎へが、今日にも来るのではないかと考へたりしたものである。(後略)

中山が糖尿病にかかっており、自分の研究の発表に危機感を持っていたことが分かる。ここには広い意味の在野研究(注1)に従事する人の大きな関心のひとつである自分のしてきたことをどのように残して、それがどのように読み継がれていくのかという問題が表れているように感じられる。この部分は現在も変わらないであろうと思われる。

第二は私のカードの始末である。(中略)大正十二年の大震災に際しても、私が先きに妻と娘と三人して持ち出したものは、此のカードだけであつた。少しばかりの衣類や什器、持出したら持出せぬこともなかつたらうが、さうした事に一切頓着せず、妻や娘は衣類の調度のと立ち騒ぐのを叱りつけて、親子三人してカードを三つの竹行李に分けて入れたものの、重いために肩にすることも出来ず、麻縄をかけて地上をずるずる引ッ張つて、あそこやここと火に追はれながら逃げ廻り、丸の内へ逃げこんだ折に竹行李の底が擦りきれらのも知らずに引つ張つたので、カードが風に飛び散つたので初めて気が付き、慌ててそれを拾ひ集めるなど、私としては忘れられぬ光景であると同時に、カードに対する恐しいほどの執着も、私としては実に止むを得ぬことだと考へている。今に土にまみれたカードを見ては、心を暗くすることも一再ではない。
斯うして苦心したカード、それの利用を終わらずして父の迎へにでも接するやうな事があつては思ふと、如何にするも私の心は焦燥たらざるを得ぬのである。私の没後には此のカードだつて邪魔だぐらいで屑屋の手に渡るか、屑屋だつて悦んでは持つて往くまいから、いづれは焼かれるか棄てられるかがオチだと思ふと、いやに感傷的にもなり、逸る心を抑へることも出来ぬやうになり、『せめて生きているうちに、此のカードを利用したい』と考へるときに、良い悪いよりは先づ書くことが専一だと云う結論に達するのである。

上記は1923年に起こった関東大震災の時のエピソードである。関東大震災は貴重な図書や資料の焼失で歴史資料の保存の意識や出版界にも大きな影響を与えた出来事であったが、中山もその影響を受けていたことが分かる。その中で一番最初に持ち出したのは中山の民俗学研究の成果の結晶とも言えるカードであった。中山の研究に賭ける想いが伝わってくるようだ。

第三は私の生活である。生れ落ちるなり貧乏には馴れているので、不自由も不如意も物の数には思つているが、誰だつて今の時勢では金と力は無いよりは有る方が便利だから、専門外の雑誌や新聞から頼まれれば、気に染まぬながらも米藍料の補ひにもとツヒ執筆する。後にはそれに狎れて、悦んで書くやうようになり、全く多作する濫作すると云う結果になつたのは、自分ながら笑止千万のことだと思つている。(後略)(以上の引用部分は一部を筆者によって現代仮名遣いにあらためた。)

研究機関の外で研究をしている中山にとっても、どのようにして自分の生活と研究を両立させるかという問題は重要であったようだ。中山は生活のための日銭を稼ぐために様々な雑誌に文章を投稿することを選択し、その論文のいくつかが『日本民俗学論考』に収録されている。この生活と研究の両立の問題は現在風に言うと研究をどのようマネタイズしていくという問題になるかと思う。先日もこの問題がゲンロンカフェで取り上げられていたが、以前から在野研究者に共通の悩みであったようだ。

(注1)広い意味での在野研究に関しては以下の記事で紹介したので、気になった方は参照して欲しい。


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