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忘れられた哲学者・平澤哲雄の父・平澤三郎のプロフィール

 拙noteでも度々取り上げている忘れられた哲学者・平澤哲雄に関してだが、その父は平澤三郎という人物であることは以下の記事で紹介した。

上記の記事でも紹介してが、三郎のプロフィールを『人事興信録』第8版(人事興信所, 1928年)を参考にしてあらためて引用したい。

平澤三郎 正七位勲七等。埼玉県多額納税者。武州鉄道(株)取締役、埼玉県郵便局長会副会長、菖蒲郵便局長、農業、埼玉県在籍
1872年に埼玉県熊谷町斎藤太郎兵衛の次男として誕生。後に先代倉吉の養子となり1904年に家督を相続する。1886年立教大学に入学、在学5年の後に1891年東京専門学校英語専修科を卒業。現在、武州鉄道会社取締役、多くの地方名誉職を兼任して農業を営む。埼玉県多額納税者でもある。二女の須磨子(1898年8月生)は香川県人宮脇梅吉に嫁いでいる。他の家族は、滋(1902年5月生)、実(1907年12月生)、健児(1910年2月生)など。

三郎に関しては、上記以外のことはあまり分からなかったが、実はこの人物を紹介した先行研究があることが分かった。『川口史林:川口市郷土史会々誌』 59・60号(川口市郷土史会)に「武州鉄道の忍延長線と、菖蒲町平沢三郎について」風間進に三郎のことが紹介されている。この論文の情報に基づいて『人事興信録』に載っていない情報も含めて三郎のことを紹介していきたい。

 この論文よると、三郎は「茶問屋」という屋号で呼ばれる菖蒲町平澤家の十六代目であるようだ。平澤家の初代は新潟県柏崎の出身で、菖蒲町では十三代甚松が見沼通船会社を経営して大きな収益を上げていた。見沼は現在のさいたま市内の中央部にかつてあった広大な沼地で、江戸時代の享保の改革時に新田開発が行われた。その一環で見沼代用水の整備が行われ舟運が利用できるようになり、年貢米輸送を中心として物流が活発になった。平澤家はこの流れにのって見沼通船会社の経営をはじめたのだろう。(注1)それ以前は茶の売買を行っていたようである。

 『人事興信録』第8版にもあるように、三郎は斎藤太郎兵衛の二男として生まれ、女系家族である平澤家のやすの婿養子となっている。三郎の出身である斎藤家は斎藤道三の流れと言い伝えられているという。

 三郎は、諸井貫一(秩父セメント社長)のすすめで特定郵便局をはじめる。他にも鉄道の菖蒲町への敷設に大きな関心を持っており、埼玉鉄道会社の創設に関わり、武州鉄道の取締役を1938年まで務めている。しかしながら、三郎は、政治や事業そのものにはあまり関心がなかったようで、郵便局の経営は他人に任せており局に出てくることはほとんどなかった。そのため、家にいることが多く書画収集を趣味にしていたようである。この点がインドの美術に関心を持つことになる息子の哲雄にも影響したのだろうか。

 余談だが、前褐の論文によると、諸井貫一は渋沢栄一の親戚でもあった諸井恒平の息子で平澤三郎とも深い交流があったようだ。上記に引用した「南方熊楠の書簡に登場する謎の人物・平澤哲雄の父・平澤三郎とは何者か?」でも紹介したが、三郎は埼玉出身者で行われた渋沢の男爵授爵祝賀会に招待されている。諸井と深い交流があったからこそこの祝賀会に三郎は招待されたのだろう。以下の記事でも紹介したように、平澤哲雄はヘンリー・ブイの追悼会に出席して渋沢とともに悼辞を述べている。哲雄と渋沢の関係に父親である三郎の影響はあまりなかったように思われるが、両者の関係はブイだけでなく三郎を経由しても一応たどることが可能である。

(注1)見沼に関しては、以下のウェブページを参照した。


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