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『明治事物起源』の編者・石井研堂と民俗学研究者・中山太郎の交流

 石井研堂は様々なものの起源を明らかにした『明治事物起源』を編集した人物として知られている。私にとっては意外に思われたが、石井の評伝『石井研堂 庶民派エンサイクロペディストの小伝』山下恒夫(リブロポート, 1986年)によると、石井は民俗学研究者・中山太郎と交流があったようだ。『明治文化』第17巻1号(明治文化研究会, 1944年)は石井の追悼特集になっているが、この号に中山が石井のことを回顧した「憶出の一片」という文章が収録されている。以下に引用してみたい。

 私が、石井翁に初めてお目にかかつたのは、今から十数年前に博文館の編集部に勤めた(後に東京日々新聞に転ず)武田櫻桃君の告別式に、同僚の濱田三峯氏と連れだち、赤坂仲ノ町へ往く途中、故尾上梅幸の家の横手まで往くと、向ふから上品な老人がやつて来て、濱田と「やあやあ」と気軽さうに言葉を交し、五六分立噺しをした揚句、濱田氏が私をかへり見て「このお方は石井研堂さんです」と紹介され、ここで型の如く「私は中山で」「私が石井です」と挨拶して別れたのが、初対面なのであつた。
 そして、その時の感じを有体に言ふと、私は石井研堂氏はモツト若い―元気撥剌たるお方であらうと想像して居た。幼年時代に読み取つた雑誌「少國民」の主筆である研堂といふ記憶は、私にさう考へさせて居たので、初めてそのお方に逢ひ、多少とも幻滅の悲哀をいだかせられたのである。
 その後、私も明治文化研究会の席末を汚すやうになり、石井翁にも殆ど毎回のやうにお目にかかり、種々お教へを受ける機会に恵まれたが、ここにはしなくも石井翁に対し、どんだ御迷惑をかける事が湧き起つた。
 それは、従来、私は「明治御落胤伝」とも云ふべき事案に興味を育ち、誰彼の材料を集め、その人物も三四十名に達したが、或時、ふと石井翁は蘭人シーボルトの御落胤だと云ふことを耳にした。しかし、如何に厚顔の私でも、石井翁に対し「貴方は御落胤だと云ふことですが」とお訊きする次第にも参らず、兎や角に思案の末に、翁の腰巾着である奥山儀八郎君に事実を告げ、石井翁にただしてくれと頼むと、程なく翁から奥山君宛のハガキが寄せられたとて、同君より私に手交された。その文面の要は「自分は奥州二本松の生えぬきの者で、決して蘭人の血などは交つて居ず、従つて中山氏の御落胤伝のタネとなる資格の無い者です」と云ふのでつた。(筆者により一部を現代仮名遣いにあらため、重要だと考えた部分を太字にした。)

Web NDL Autoritiesで確認すると、上記の引用部分に登場する武田櫻桃の没年は1935年なので、この年に石井と中山が初めて会ったことが分かる。中山の回想では「十数年前」と言及されているが、おそらく中山の記憶違いであろう。その後、中山は石井と明治文化研究会で交流があったことが分かる。冒頭に紹介した石井の評伝によると、石井は明治文化研究会の最長老であったようだ。ウェブで閲覧できる「「明治文化研究会例会」講演目録」田熊渭津子(『國文學』40号, 1966年)によると、中山の明治文化研究会で少ないながらも研究報告もしていたようで、以下の発表を例会で行っていた。

第147回 昭和14年・5・11・法曹会館 詫証文に就て 中山太郎
第182回 昭和17年・7・11・法曹会館 南方の先覚者中村弥六逸話 中山太郎

また、「ざっさくプラス」を調べてみると、中山は明治文化研究会の会誌『明治文化』に以下の文章を投稿していた。

13巻12号 明治維新と盲人団体
14巻2号  身売した成田山
15巻3号  南方熊楠翁
17巻1号  憶出の一片(上記に一部を引用した文章)

明治文化研究会は1924年に吉野作造を中心に設立した研究会なので、中山の参加は遅かったと言えるだろう。中山が明治文化研究会に参加しはじめたのは、石井の影響や紹介があったからなのだろうか。

 中山は石井のことをシーボルトの落胤(いわゆる隠し子)ではないかと疑っていたようだが、この話は冒頭で紹介した石井の評伝にも登場する。この本には引用元が書かれていなかったが、中山の回顧を元にしたのだろう。



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