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日常の外に出ること―『限界芸術論』鶴見俊輔のメモ

 以下の読書会のために『限界芸術論』鶴見俊輔を読み進めている。鶴見俊輔は「限界芸術」を「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される」ものと定義している。鶴見によれば、「限界芸術」は専門家によってつくられ専門家が評価する「純粋芸術」、専門家によってつくられ非専門家(大衆)に受容される「大衆芸術」よりも広大な領域で芸術と生活の境界線にあたるものであるという。限界芸術を文化や芸術を語る上で使用する上では以上の定義で十分かもしれないが、限界芸術を鶴見の思想の中に位置付けようとするとこれでは不十分であろう。

 鶴見の思想の中で限界芸術がどのような位置付けになっているかを考えてみたい。今回の前の会で配布した資料を公開した以下の記事でも紹介したように、鶴見は自分の思想を日常の安定性に根拠を置くことを肯定しながらも、一方でその日常が自明のものとなり視野が狭くなること陳腐化することを懸念してあえて安定した日常を突き崩そうともしていた。

・いろいろな文章を再読して思ったのが、鶴見俊輔は結構ラディカルでは?ということ→日常や自分の身の周りに思想の根拠を求めるが、その場を疑い意図的に底抜けさせようとする思想。日常に異物を取り込んで揺さぶり続ける。(上記の記事の「3.論点」より抜粋)

鶴見は、思想を発酵させる場である日常を安定した次元/不安定な次元の二重性を持ったものとして捉えていたのだと考えられる。『限界芸術論』では、鶴見は日常と芸術の関係を以下のように考えている。

美的経験として高まってゆき、まとまりをもつということは、その過程において、その経験をもつ個人の日常的な利害を忘れさせ、日常的な世界の外につれてゆき、休息をあたえる。(中略)美的経験が日常経験一般と区別される特徴として、それじしんとしての「完結性」だけでなく日常生活からの「脱出性」をもつというふうに言いあらわせる。美的経験は、人間の経験一般の凝集であるとともに、経験一般からの離脱反逆でもあるわけだ。(後略)

芸術の役割を日常から離脱することであると鶴見が考えていたことが分かる。鶴見は、限界芸術を「生活の様式でありながら芸術の様式でもあるような両棲類的な位置を占める」とも述べている。これは限界芸術は安定した日常の中で営まれる一方でその日常を揺さぶったり、外に出るきっかけになったりすると言い換えることもできるだろう。繰り返しになってしまうが、鶴見は限界芸術を安定した日常に不安定さを生み出すようなものと考えていたのではないだろうか。そうであれば、鶴見の『限界芸術論』を読むことは、日常に安定性/不安定性をみていた鶴見の思想の中心を理解することにつながっていくように思われる。

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