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謎の男・平澤哲雄の亡くなった年齢と生前の肩書―凄いぞ!次世代デジタルライブラリー

 先日配信された皓星社のメールマガジンで「在野研究者のレファレンスチップス」を連載されている小林昌樹さんが「次世代デジタルライブラリー」を紹介されてた。この検索ツールの有用性は私も以下の記事で紹介したことがあるが、このツールの有用性は自分の知見や関心の範囲外にありアクセスすることが難しかった予想外の情報にアクセスできることにあると思う。

私が以前から調べている謎の男・平澤哲雄に関して、次世代デジタルライブラリーで検索してみると、私の知らなかった『国史大年表 第九巻』日置昌一(平凡社、1941年)に平澤のことが載っていることが分かった。該当箇所を確認してみると、「評論家平澤哲雄歿す年三十直現藝術篇」とある。「直現藝術篇」は平澤の著書である『直現藝術論』(下出書店、1922年)のことであろう。

 ここで重要な情報は平澤が『国史大年表』が編集された当時「評論家」と認識されていたことと30歳で亡くなっているという点である。私は以下のように平澤の年譜を作成したことがあるにも関わらず活動の全体がよく分からなかったが、少なくとも日置昌一には評論家と理解されていたようである。確かに改めて平澤の年譜を確認すると、評論家のような仕事が多いようにも見えてくる。

 もうひとつの30歳で亡くなったという情報は平澤の生年を特定する鍵になる。上述の年譜では、平澤の生年は『直現藝術論』から1913年に満16歳で渡米という記述から逆算して1896年もしくは1897年の誕生としたが、1925年に30歳で亡くなったとすると1894年もしくは1895年になる。どちらの情報が正しいかであるが、私は後者の方が可能性が高いのではないかと考えている。前者は平澤の自伝的な部分からの情報であり、『直現藝術論』は、たとえば第一次世界大戦の開戦した年や平澤の米国に滞在した年数にあやまりがあるなど、出来事の年月に関する情報の信頼性が薄い。日置がどのような資料を参照していたのかは分からないが、『国史大年表』の方が信用できるのではないだろうか。

 ところで、『国史大年表』に平澤が取り上げられていること自体が私にとっては興味深い。この本の第1巻を確認すると神武天皇の即位から年表がはじまっているので、作成が開始された時期である1935年を考慮すると1940年の皇紀2600年に向けてつくられたのだろう。作成した日置は平澤を学芸・文化面で重要な人物であると判断したのだろうか。今では平澤はほとんど忘れられた人物であるが、この当時は知っている方は知っていたのだろう。

 余談になってしまうが、日置が第1巻で『国史大年表』を作成するのにお世話になったと感謝を述べている人物のひとりに床次竹二郎がいるが、床次は平澤の追悼会の発起人の一人でもあった。(注1)

(注1)平澤の追悼会に関しては、以下の記事を参照。




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