斎藤昌三とも交流のあった忘れられた民俗学研究者・出口米吉
書誌学の研究者として知られている斎藤昌三の『三十六人の好色家 : 性研究家列伝』(創芸社, 1956年)には、性風俗の研究をしていた様々な人物が取り上げられているが、そのひとりが以前下記の記事で取り上げた出口米吉である。この文章から、斉藤と出口の間に交流があったことが分かるので、以下に引用してみよう。
僕の道楽の発禁研究が一段落した時、転向したのが生殖神の探訪研究だつた。
大正初期のことで、これには二人の先輩があつた。一人は当時満鉄の副総裁だつた上田恭輔老であり、他の一人は英語学者の出口米吉であつた。
二人共当初は文通ばかりだつたが、後には親しく面接の機会が重ねられた。
この出口老は埼玉県浦和中学に在職したこともあつたが、後には大阪に引退して老後を全うした人である。
米人バツクレーが東京から日光までの旅行で、傍見した石造の生殖器神を研究して博士になつたが、この報告を「日本人類学雑誌」に最初に訳出したのは出口老で、明治二十八年であり、上田老の、『生殖器崇拝教の話』は大正五年で、共にこの種の研究の先駆である。
次で出口老は自らの研究を『日本生殖器崇拝略説』としてまとめ、以下次ぎ次ぎと研究を集成して発表した。
日本に於ける此の種の研究は、以上の三著からスタートしたものと云うべく、出口氏の謹厳な態度は前期の小倉君(筆者注:小倉清三部)によく似て居り、先輩も同じ位であつた。今はこの人も既に亡い。(筆者が重要だと考える部分を太字にした。)
出口と斎藤が書簡のやり取りだけでなく実際に会っていたことが分かる。斎藤は発禁本や猥本の研究などでも知られており、出口と共通の関心を持っていたことから親しく交流していたのだろう。同じく斎藤が様々な人々との交流を回想した『少雨荘交游録』(梅田書房, 1948年)でも出口との交流が語られており、斎藤にとって出口との交流がとても印象に残っていたことが伺える。
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