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柳田国男と岡崎趣味会

 以下の記事で愛知県岡崎市で活動していた岡崎趣味会について簡単に紹介したが、その後、川口勝俊『蔵書票 関係資料あれこれ―岡崎趣味会と蔵書票の活動』(平成19年)を入手できた。この本では、岡崎趣味会の活動が丹念に調べられており、岡崎趣味会と全国の趣味人の交流が紹介されている。貴重な本であるようなので、書影を写真で載せておきたい。なお、この本については別途紹介したい。

表紙
目次

 この本では岡崎趣味会は以下のように紹介されている。

 岡崎地方史研究会の前進をなす郷土史研究の会。どのような経過で出来たか不明であるが、大正7年(1918)に第1回会合が市内康生町稲垣安郎(豆人)宅で、考古物を各自で持参して開催された。同9年(1920)には第1回の絵馬展を菅生神社で開き、同10年シカゴ大学教授スタール博士来岡の時は、本会と納札会と共に歓迎会を行った。同10年の名簿によれば会員42名、そのほとんどは市内中心部の人々であった。(中略)昭和2年(1927)から会誌『趣味泉』を発行したが、同10年代に会を閉じることとなる。この間事務局は松井弘が担当したようである。(『新編岡崎市史 総集編20』、平成5年より引用。)

岡崎趣味会は蒐集趣味、好古趣味、郷土研究に関心のある人びと集った団体であったことがわかる。上記に登場する稲垣豆人、松井菅甲は以下のように述べられている。

稲垣豆人(安郎) 1877~?
旧姓松原安治郎、後安郎と改む。清和源氏の末流として、明治十年八月、三河西尾本町に生る。現住所、康生町。血気壮年の頃は九州より琉球、台湾、南満、マニラと放浪し、元気に任せて性的行脚に努む。後郡記者より新聞記者となり、岡崎の瓦斯会社創立に努め今日に至る。整然たる岡崎趣味会は最も君の力に負ふ所、今やその運動は市の年中行事にならうとしてゐる。蒐集の主なものは土俗品、絵馬。研究は性的神の探訪にある。(『いもづる』革新1輯、大正13年より引用)

松井菅甲(弘)1890~1968
松井弘氏は若い日は歌人として名を上げ、永く新愛知新聞の岡崎支局長として活躍された。柔い人柄と熱心な探求心から、この地の文化的行事のすべてに、表になり陰になり松井さんの顔を見ないことはなかったと言われる。(中略)趣味と小間物百貨店「みどりや」を創設、経営されたが、昭和43年4月没。長年熱心に収集し、保存整理された資料やスクラップ等は「新版岡崎市史」現代篇執筆に大層役立っていると聞く。(『ふるほん西三河』34号、平成3年)

 上記引用部分では稲垣の没年は不明となっているが、没年は1942年11月11日ということが雑誌『鯛車』で確認できる。両者が岡崎趣味会のキーマンであったようだ。

 先日、この本の中で紹介されていない岡崎趣味会の活動が斎藤昌三、加山可山が編集していた趣味誌『おいら』五度目十一月号(大正9年)に掲載されているのを発見した。私が読んだのは復刻版である『斎藤昌三編集『おいら』→『いもづる』―郷土研究的趣味雑誌の1920~1941年』(金沢文圃閣、2022年)であるが、その部分を以下に引用してみたい。

稲垣豆人氏(岡崎)―(大正九年)十月二十六日—
羅漢会と申すを組織し、唐変窟に八羅漢が寄合い、仏典考古人類学の談合に余念無之候、只今より来岡中の柳田国男さんを訪問に行く所に候。
松井菅甲氏(岡崎)―(大正九年)十月二十七日—
国調に就ては記念物を蒐めて一冊を作りたいと思います、貴下からの英文申告書宿屋の主人から御客様に出した申告記入の印刷物も面白いものです….。
柳田国男氏来岡を機とし、汲古会講演会を開きました….。

稲垣は岡崎を訪れた柳田国男と面会し、松井は柳田の影響を受けて汲古会講演会を開いたという。『柳田國男全集』別巻1(筑摩書房、2019年)の年譜を確認すると、大正9年10月23日、26日の条に以下のような記述があった。

一〇月二三日 岡崎に入り、菅生神社社務所で、岡崎趣味の会の会員たちに「三河が生んだ最も記念すべき人物」として菅江真澄の話をする。(後略)
一〇月二六日 孝の母方の祖母である大藤くわの墓参りをして、岩津天満宮に参拝する。千枝宛てに病気はよくなっているかと葉書を書いたあと、午後、岡崎の町で講演する。(後略)

10月23日から26日にかけて柳田は岡崎に滞在しており、その期間に稲垣と会ったようである。岡崎趣味会の他のメンバーとも交流があったのだろうか。

 岡崎趣味会は郷土、土俗関連も蒐集、研究の対象の一つであったので、民俗学、郷土研究を普及しようとする柳田は講演を行ったのであろう。柳田が趣味とは一定の距離を取り、民俗学を趣味と切り分けることを強く意識していたことはよく知られている。しかしながら、まだ学問領域として成立していなかった民俗学を地域へ広めるため、岡崎趣味会のような趣味の集まりにも期待していたように思われる。そして上述のように松井は柳田の影響を受けて汲古会講演会を開催したので、柳田の訪問は一定の効果があった。柳田と岡崎趣味会の接触は民俗学成立以後では見え辛くなった柳田と趣味人、趣味団体とのゆるいつながりの一例と言えるだろう。

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