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民俗学研究者・日野巌の出生地は山口県ではない?

久米龍川(谷川要史)が発行していた『郷土風景』第2巻第2号(1933年2月)には、「郷土料理に就いて 諸家の回答二十家」という文章が掲載されている。この文章は作家、民俗学研究者など著名人20名に自分の出身地の郷土料理について質問した回答が掲載されている。回答を寄せた人物は以下の通りである。

木村毅/西澤笛畝/九十九豊勝/池部均/高須芳次郎/杉山栄/窪田空穂/福山順一/田中緑紅/佐々木信綱/長谷川伸/久保田金僊/平山蘆江/伊原青々園/津村京村/佐々木喜善/日野巌/中村碎聲/永井凡平/久米正雄/山田順子/秋田雨雀

この中で目を引いたのは日野の文章である。以下に引用してみたい。

北海道の三平汁。これほど簡単な料理はありません。湯の中に塩鮭の頭も一緒に切込んでダシ昆布、大根、人参、其の他の野菜を一緒に煮込みます。
味は塩鮭の塩で充分ですが、甘ければ塩を加へます。又臭の嫌な人は、酒粕を加へるか又は椀に入れてから生姜の絞汁を少し加へます。北海道の生れの私には、此の三平汁が忘れ難いものです。極めて簡単で然も美味い料理であると今も思っています。(一部を筆者により現代仮名遣いにあらためて重要であると考えた部分を太字にした。)

上記の文章の内容は普通であるが、ここで注目したいのは日野が「北海道の生れの私」と述べている太字にした部分である。従来日野は山口県の出身であると言われていたが、本人曰く北海道出身であるという。従来の情報にあやまりがあるのだろうか。

 日野巌の研究をされているWATANABE様によると、日野は山口県出身と言われていたが、実は北海道出身であったという。以下の日野の年譜を補足した記事が詳しい。やはり日野は北海島出身であったようである。これを裏付ける根拠として、日野の父親である吉甫の職歴を調べると、巌が生まれた1898年前後の役職は、『職員録 明治32年』によれば、宮内省御料局札幌支局出張所に所属する技師であったようである。吉甫は北海道で勤務しながらも山口に本籍を残していたと思われ、『人事興信録 5版』(1918年)の河本後進の項に河本が養子に取っていた禎助の紹介に「山口、士、日野吉甫弟」とあるので、吉甫は山口の人物であると述べられている。また、巌は『東京帝国大学一覧 従大正12年至大正13年』(1924年)に出身地が山口と書かれている。これらの情報がもとになって巌の出生地が北海道でなく、山口であるという誤解が生まれたのだろうか。(注1)

(注1)次世代デジタルライブラリーで検索した。この検索エンジンの有用性については以下を参照。


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