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南方熊楠「神社合祀問題関係書簡」についてのメモ

南方熊楠が神社合祀反対運動を展開していたことはよく知られており、この取り組みはエコロジーの思想、史跡や天然記念物保護の先行的な事例として語られることが多いが、実際に熊楠の神社合祀反対運動関連文章を読んでみると前述以上の多様な論点を含んでいたことが分かる。熊楠の神社合祀反対関連の文章は青空文庫でも一部が公開されており、以下のリンク先から閲覧できる。

今回は『南方熊楠随筆集』(筑摩叢書、1968年)に収録されている「神社合祀問題関係書簡」から興味深かった点を引用してみたい。この書簡は明治44年8月29日に松村任三宛に送付されたものである。

(前略)日置川ひきがわ筋の神社合祀は実に甚だしく(中略)三十社四十社を一社にあつめことごとくその神林を伐りたるところ多く、また今も盛んに伐り尽しおり、人民小児の名づけ等に神社へ詣るに往復五里、甚だしきは十里も歩まねばならず、染物屋(祭りの幟)、果物屋、菓子小売等、細民神社において生を営みしもの、みな業を失い、加うるにもと官公吏たりし人、他県より大商巨富を誘い来たり、訴訟して打ち勝ち、到るところ山林を濫伐し、(後略)

上記に引用した箇所では、熊楠が人びとの生活を懸念しており、神社を経済的、精神的にも人びとにとって中心であったと考えていたことがわかるだろう。神社が経済的にも中心であったと論じられているのが個人的に興味深かった。



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