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橋川文三『歴史と体験 近代日本精神史覚書』についてのメモ―探究の動機

 橋川文三『歴史と体験 近代日本精神史覚書』(春秋社、1964年)を最近読み進めている。この本には橋川が様々な文章で強調している「戦争体験の普遍化」の目指す地点が述べられているので、「「戦争体験論」の私的総括」から以下に引用してみたい。

戦争体験論というものがもし可能であるとすれば、それは経験記述の方法論というものとは区別されるはずである。(中略)私は、「戦争体験論」は歴史批判の一つの方法ということを目ざしているように考える。それは、少し換言するならば、思想批判の方法ともいえるし、権力=国家批判の方法ということもできるはずである。そして、そのように考えられる限り、それは思想方法論としては、従来のいかなる批判様式とも異質のものではないかと私は思っている。そして、もう一つ先回りしていえば、その異質性は日本のあの戦争の本質的構造によって規定されたものと、私は考えている。

 この部分で橋川は戦争体験論は経験的、感覚的なもの、記録の方法論ではなく、思想や批判の方法論であることを強調している。言い換えると、戦争体験論は経験や感覚の領域に属する個人的なものでなく、思想や理論の領域に属する普遍的なものであるとも言えるだろう。橋川の強調する戦争体験の普遍化は思想、理論の領域で考えるということであったことがわかる。

 また、橋川は上記に引用した部分にある戦争体験論の「異質性」をマルクス主義、柳田国男の民俗学を例とした保守思想と異なると前置きした上で以下のように述べている。

前二者(マルクス主義と保守思想)と区別されるもっともいちじるしい思想的特質は、そのいずれもが思想主体の内面性に迫る有効な方法を欠いているのに対し、その思想的出発点を、人間の存在論的亀裂、ないし世界秩序の原理的分裂の事実性と可能性とにおいていることであろう。この思想は、日本の十五年にわたる戦争過程で陶冶された世代によってはじめて提起されたという意味では特殊的であり、彼らにとっての特殊な急進的原理であるほかはない。それはその体験の民衆的構造に新しい視座を提起した限りではそうでないし、戦争一般と権力一般への批判の基点を新しく構築せんとしている点では、普遍的である。

 橋川はマルクス主義と保守思想を「思想主体の内面性に迫る有効な方法を欠いている」と指摘している。この自身に内省を迫る思想や態度が橋川の言う戦争体験論の特徴であると思われる。

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