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『マス・イメージ論』吉本隆明に関する雑記⑤―究極映像・柳田国男論へ

前回までの『マス・イメージ論』吉本隆明に関する記事では、この本の出版以前と関連付けて吉本の問題関心の連続性を紹介してきたが、今回はこれ本以後の問題関心につながっていると思われるところを紹介していきたい。

 吉本は『マス・イメージ論』の出版の後、『ハイ・イメージ論』の連載を開始する。この本の問題意識の一部を「ハイ・イメージを語る」という講演で以下のように表現している。

(前略)現在、僕が社会的に感じること、思い浮かべるイメージについて、考えていることが二つあります。一つは交換するイメージというか、イメージの交換が非常にたやすくなっていることです。何と何を交換するかは何でもいい。たとえば社会制度、政治制度の問題で言えば資本主義と社会主義でもいいですが、イメージを交換することが非常にたやすいと思います。
もう一つは違う交換でもいい。現実と幻想も、たやすくイメージを交換できる。ちょっとした操作をすれば、すぐイメージを交換できるようになっている。交換がたやすくなっていることが、イメージについて一つ、大雑把に言えることではないか。
 もう一つは、限界ということです。境界、境目、「これ以上はどうしようもない」という意味の限界でもいいですが、限界というイメージが割合に可能になってきたのではないか。しかも、「ここからここ」とはっきり区別がつく限界ではない。そばへ近づこうとすると、限界はまた逃げてしまいます。いつでも逃げてしまうけれども近づくことはできて、しかも「ここは限界だ」というある限界性みたいなものがイメージとして見える。しかし、そこへ近づこうとすると限界のイメージはまた逃げていく。そういう二つの現象が、こちらで与えられた問題に共通に言えるイメージの問題ではないかと僕には思えます。(後略)

 では、上記のような「現実と区別がつかない極限のイメージ」はどのようにつくられるのか。ほぼ同じ時代に行われた「イメージ論」という講演から引用してみよう。

(前略)だから究極映像の体験とは何かというと、理論的に分析してしまえば、要するに地面に平行な視線を想定して、もうひとつそれに対して直交する真上からの視線を想定して、それを同時に行使したところに出現できるイメージが、現在考えられる究極映像だと言うことができると思います。そのように分析すると、水平視線と垂直視線の交点を同時に行使したときに出現するものが、たぶん究極映像と言われているものだと思います。(後略)

 上記の引用した文章中に出てくる「地面に平行な視線」と「真上からの視線」を交差させるという方法の断片が『マス・イメージ論』の「推理論」にも出てくる。

(前略)けっきょくわたしたちが<推理>とかんがえているものの本質は、はじめに既知であるかのように存在する作者の世界把握にむかって、作品の語り手が未知を解き明かすかのように遭遇するときの遭遇の仕方、そして遭遇にさいして発生する<既視>体験に類似したイメージや、分析的な納得の構造をさしていることがわかる。(後略)

 この文章だけだとよく分からないので文脈を補足したい。この文章は、エドガー・アラン・ポーの作品『メエルシュトレエムにのまれて』の中に登場する老人が巨大な渦にのまれた体験を語った部分の分析を受けて書かれている。吉本によると、老人は渦にのまれた体験を語っているが、その体験談は、渦の内側に接近した位置と渦を上から見下ろした位置での体験が重なったものであるという。「既知であるかのように存在する作者の世界把握」はポーの作品の中の「上から見下ろした位置での体験」、「渦の内側に接近した位置」は「作品の語り手が未知を解き明かすかのよう」な体験に対応している。こここから「地面に平行な視線」と「真上からの視線」を交差させるという方法を吉本が『マス・イメージ論』の段階で考えていたことが分かる。

 この「地面に平行な視線」と「真上からの視線」を交差させるという方法は『柳田国男論』の序章とも言える「体液の論理」という章にも現れる。長くなってしまうが引用してみよう。

(前略)柳田国男がここでわたし(たち)を惹き込んでゆくわが村里の婚姻風習の世界は、いわば内視鏡で写している世界だ。書きしるしていく柳田国男の文体も、それを読んで惹き込まれていくわたし(たち)の方も、ほら、改まって言わなくてもわかるだろうといった暗黙の契約を、どこかでかわして<読むもの>と<読まれるもの>の関係にはいっている。いわばかれの方法も文体も読者の無意識が、村里の内側にいる感じをもつことをあてにし、それを前提に成り立っている。その魅力(魔力)に惹き込まれてゆくかぎり、読む者はまちがえなく、日本の村里の習俗の内側にいるという無意識にかきたてられる。それがわたし(たち)に既視現象みたいな感じを与える理由だとおもえる。
 わたしがこの瞬間に既視現象の内部にありながら、同時に想像力をふりしぼって、いま柳田国男がしるし、いま現にわたしが惹き込まれている村里の婚姻の風習を、外部から視ている視線を想像してみる。(中略)外視鏡に写った婚姻風習は、内部にいるわたしの視線とまったくちがった像(イメージ)にみえるはずだ。わたしの内視鏡に写ったわが村里の婚姻風習と、外視鏡からみえるはずのおなじ婚姻風習の像のあいだにはひとつの<空隙>がある。(中略)この<空隙>はいわば既視空間ともいうべきものだ。(後略)
(『吉本隆明全集撰4 思想家』(大和書房)に収録の『柳田国男論』より引用)

 「内視鏡」と「外視鏡」が、それぞれ「地面に平行な視線」と「真上からの視線」にすると言えるだろう。ちなみに上記の「推理論」の中から引用した「<既視>体験」も『柳田国男論』に反復されている。今回この部分を読んで気づいたが、「既視体験」も80年代の吉本の問題関心を読み解く上でキーワードのひとつになりそうだ。

 なぜ究極映像に対して関心を持ったのか、『マス・イメージ論』以後どう問題関心が変化したかはこれからの宿題としたい。

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