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アダム=スミス研究者・水田洋も編集していた戦前の文藝誌『一橋文藝』

 先日、古本即売会で『一橋文藝』という雑誌を購入した。『机上版  日本近代文学大事典』近代日本文学館編(講談社, 1984年)の石原慎太郎の項目にもあるように、この雑誌は1954年に当時一橋大学に在籍していた石原が伊藤整らの援助で復刊したことで知られている。なぜこの雑誌を購入したかと言うと、編集者の一人がアダム・スミス研究者として知られている水田洋であったからである。奥付によると、水田は当時東京商科大学の一橋文藝部に所属していたようだ。私が購入したのは『一橋文藝』第7号(1940年)で、この号を最後にこの雑誌は休刊した。全国の図書館にもあまり所蔵がないようなので、以下にいくつか写真を掲載しておきたい。水田はこの号に「ルネサンス素描」という論文と裏表紙の終刊に関する文章を書いている。

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終刊のことばには明確な終刊の理由は書かれていないが、『一橋文藝』の内容に関しての反省が以下のように述べられている。

(前略)新体制は単に「心がまへ」の問題ではない。しかしながらそれは現実に対応する世界観の問題であることは充分に可能であらう。学園に於ては教授の学問的人格的指導が希望され体育と文化の一般化が要求される。新しい世界観とそれを基礎とする全生活の革新が当面の課題なのである。/ 我々は従来の一橋文藝の立場が二つの意味で狭隘であつたことを自認しなければならない。第一に、それが単に文藝のみを対象としていたこと、第二に、一般同人から遊離していたことがこれである。それ故に我々は今や二つの意味での一般化を目指すものである。即ち世界観一般の探求を目標とし同人全般を基礎としようとする。我々は先づ本号に於て、それを総合文化雑誌たらしむべく努力したのであつたが、その結果はここにあらはれたやうな貧しいものにすぎなかつた。/ それはこの学園が背負ふ宿命なのであらうか。文学するものは同人雑誌的デイレツタントと化し、一般の関心もまたそれ以上のものではなかつた。(後略)

1940年には近衛文麿内閣のもとで新体制運動が開始され、「新しい世界観とそれを基礎とする全生活の革新が当面の課題」とされていたようだが、この課題に向き合えなかったということだろうか。上記の引用部分にもあるように、社会科学を中心とした東京商科大学では文藝雑誌の支持は得られなかったようで、これも終刊の一因に思われる。

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