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ただそこに「ある」ことをあらためて気づかせてくれた「ない」という今


「岡田メソッド読んでる芸人って僕ぐらい」

先日、

FC今治が配信する
YouTubeに出演した

銀シャリの橋本さん。

自身がいかほどまでにサッカー好き
なのかについて

「岡田メソッド」を持ち出すという
彼らしい独特な切り口で熱弁していました。

FC今治の担当者が

「僕よりもサッカーに詳しい」

と舌を巻く豊富な知識を有して、

「日本サッカー界の発展に
1ミリでもいいから貢献したい」

と、若干はにかみながらも
ホンネを語ってくれたように思います。


■そういえば、

ということで思い出したのが
「ハンスオフト」という人物。

今から40年ぐらい前に来日し、

弱小クラブにタイトルをもたらしたり、
日本代表の監督を務めたり。

「ドーハの悲劇」

ならなんとなく皆さんも
聞いたことがあるかもしれません。

ワールドカップへの出場、
プロサッカーリーグ発足という

日本サッカー界の変革期に、
斬新な価値観で僕たちを魅了したオランダ人。

当時はインターネット
がありませんでしたから、

新聞や雑誌を買ったり、
テレビ放送を録画しては

彼の一挙手一投足を追い続けました。


■シンプル

なキーワードはいまだに
記憶をとどめています。

スモールフィールド、トライアングル、
アイコンタクト、コーチング、ターゲットマン、
タスク、ディシプリン。

辞書を引いて意味を調べたり、
彼の哲学をまとめた本を買って

子どもながらに必死に
勉強していたように思います。

まるで

銀シャリの橋本さんが
岡田メソッドで勉強するように、

オフトマジックの裏側を
探求する知的好奇心は

僕も負けず劣らずだったと
自負しています。

当時

「1ミリでもサッカー界の発展に貢献したい」

という気持ちがあったかなかったか
定かではありませんが、

今はピッチ外
に立ち位置を変えて、

少しでいいから役に立ちたい
という情熱とともに

日々勉強に努めています。


■これら

二つの事実
からわかるのは、

橋本さんも僕も、

目の前に現れた「新しい」サッカー観に
いちいち真剣に驚いているということ。

岡田さんにとっても、
オフトさんにとっても、

彼らの頭の中にある、もしくは見えている、

当然で、とるにたらない
サッカー観のあらゆるものが

橋本さんや僕にとっては

恐ろしいほどに高度であり、
洗練された方法論に映っている。

彼らの言葉に触れるたびに
ため息がでて、

ときに絶望的なショックを受けることも
あったかもしれません。

ということは、

おそらく当時、
そして今も、

サッカーの現場で働いている方々は皆、

時々刻々に進歩を遂げる
最新の論理を勉強して、

その論理をなんとかして自分のものにし、
再現して、伝えていきたい

という思いにかられているはずです。

橋本さんや僕のように
専門外の一ファンであっても

「貢献したい」

と熱狂的に語るわけですから

現場の監督、コーチ、
その他関係者が持つ

その「使命感」たるや
想像を絶するものであることは論を待ちません。


■岡田さんもオフトさんも、

僕たちにとって
ないはずのものがそこにある

ことを教えてくれる存在。

親、先生、上司も、

知らないことを教えてくれる

という意味では同じで、

人間として、もしくは専門分野における
成長を後押ししてくれる大切な存在です。

ではその逆、

あるはずのものがない

ことに気づかせてくれる存在
ってどんな存在でしょうか?

たとえば
日常生活において

あるもの

携帯電話、インターネット、
生活インフラ、コンビニ、電車、
エアコン、衛生環境、授業や仕事…

それらは全部、
僕らにとって

あって当たり前のもの

ネットがつながらなければ困りますし、
コンビニが閉まっているなんて想像できません。

電車が動かなければ遅刻しますし、
トイレに行けなければ体調を壊します。

そこにある「ありがたみ

はひょっとしたら
ないこと」を忘れてしまってるくらい、

あることが当たり前

になっている。
そんな世の中で、

あるものがない

ことを教えてくれる存在って
何でしょうか?


■コロナ

はその一つではないかと
ちょっと思ったりしている。

携帯電話も、インターネットも、
生活インフラも、コンビニも、電車も、
エアコンも、衛生環境も、授業も仕事も

僕たちにとって

あって当たり前

なので、いちいち

「ないとき」をイメージして
生活することはありませんでした。

仮に電車がとまっても、
数時間で復旧します。

インターネットが通じなくても驚きません。

「またか」程度で
数分がまんすればまた使えるようになる。

携帯電話をなくしたら、
また買えばいいだけの話です。

ちょっとした混乱
は自然に収まるという

「あって当たり前」状態は、
「感謝の気持ち」を薄れさせていた

と言えなくもありません。


■コロナは

「そんなわけない!」

ということを
教えてくれたように思います。

「そこにある」ことは
「当りまえじゃない」という事実。

「あって当たり前」というのはいわば、
バランスボールに座っている状態。

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インナーマッスルがあれば、
長時間安定して座っていられますが、

自分以外の誰かがボールを押した瞬間、
バランスを失います。

つまり「安定していること」は
当然ではなく、

「安定していること」は、
がんばって手に入れなければならないこと

なのです。

そして、

「誰かに押される」ことがなかったのは
単なる偶然。

いつなんどき、
「誰か」が現れるかもしれない

という前提で
常に備えておく必要もありそうです。


■Jリーグ

が再開されて、
お客さんがスタジアムに入れるようになりました。

そしてあらためて、

その「日常」が「当たり前ではなかった」
と多くのファンが思ったはず。

ユニフォームを着て、スタジアムに行って、
声を出して応援したり、

友だちとお酒を飲みながら興奮したり、
試合後に居酒屋で一杯飲むこともそう。

すべてが奪われる前
僕たちは、

絶対にバランスボールから
落ちることはないと「錯覚」していました。

そして、

「誰か」が足音を消してゆっくり近寄り、
押さないかぎりにおいて、

心底困ってしまうという事実
に気づかなかったかもしれません。


■短兵急に

「だからコロナ禍に感謝」

なんて言う気は
さらさらありません。

仕事を奪われ、生活に窮する人
がたくさんいて、

それは僕にとっても例外ではなく、
結構な影響を受けて辛い思いもしています。

ですがこの不合理さや偶然の出来事を、
恨めしがって憎んで腹を立てているだけでは

僕もやっぱりくやしい。

この状況をどのようにとらえ、
どのような対策を取って後世に残していくのか。

人類の英知によって、
幾多にも及ぶ危機を乗り越えてきた歴史は、

コロナにも必ず打ち克つことを
確信させてくれます。

ということは
インターネットと同じように、

「ちょっとがまんすれば」
という範疇に収まって

コロナによってあぶりだされた

「ないこと」を意識しなくなり、
「あることの大切さ」が失われてしまう。


■僕ができることといえば

スポーツの文脈において、
スポーツがもたらす「当たり前」を

人間にとって
人間が生きていく上で

価値あることだ
として言語化すること

そしてスタジアムに行ったことがない人と
行ったことがある人に対しても

あらためてその大切さに
気付いてもらうこと
に他ならない。


週末にスタジアムに行くこと
家族や友だちと時間を過ごすこと

食べて飲んで
声を出して応援して

時間を忘れて
サッカーと、サッカーを通してうまれる

人間関係や
非日常の興奮、感情の開放。

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「あることは当たり前」ではなく
「あることに感謝」して

なくなったとしたら
どれほどしんどくて、辛くて、寂しいものか

ということを訴求し、
多くの、いまだ体感したことのない人々

伝えて、伝え尽くして
スタジアムに足を運んでもらう

もしくはネット上でもいいので
サッカーのコミュニティに加わってもらう。

それは岡田さんやオフトさんが
橋本さんや僕に伝えてくれたように

いちいち真剣に驚くような
リアル性、臨場感、高揚感を与える言葉
をもって

実際に「動いてもらう」
ところまで心を揺さぶらなければなりません。

「サッカー界の発展に貢献する」

コロナ禍において
何をすべきかがあらためて鮮明になった。

憤りをおぼえる状況下で
はからずもビジョンを再確認することができました。

それは

「あることがない」

ことに気づくことによって
もたらされたと言えるのではないでしょうか。



今日も最後まで読んでくれて
ありがとうございます。

それではまた明日。
おつかれっした!




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