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オープンイノベーションの原点はガソリンスタンド?起業家だった父からの学び

2012年に開設したいわゆる「オープンイノベーションスペース」のはしりである大阪イノベーションハブ(通称OIH)。僕がごく普通の地方公務員からビジネスの世界に飛び込むきっかけとなったのはこのOIHの立ち上げでした。
当時、大阪市役所の職員だった僕のそれまでのキャリアは、区役所の税務課固定資産税係、福祉部門の総務担当、介護保険課、高齢福祉課、障害福祉課…など、いわゆるビジネスの世界とは縁遠いものばかり。
そこからいきなり、ビジネスの世界の中でもさらに尖った「イノベーション創出支援」という業界に移った訳ですが、不思議に「この課題はこうしたら解決するんじゃないの?」と思ってとったアクションの多くが成果につながり、「天職かも!」という実感が得られた。
その結果、独立してフィラメントという会社を立ち上げ、今に至るのですが、先日、「なぜ、それまで経験のなかった仕事をいきなり天職に感じるほど馴染めたのか」その理由に思い至ったので少し書いてみます。

1. 当時のガソリンスタンドはオープンイノベーションスペースだった

僕が小さい頃住んでいた家は親が経営していたガソリンスタンドが併設された小さな家でした。
ガソリンスタンドの勝手口が住居につながってて、おやつの時間になったらスタンドの方に出てお客さんと一緒におかし食べたりしてた。

当時のスタンドは、ガソリンを注いだり洗車や車の整備待ちの時間を過ごすため、お客さんが事務所に出てきて、父と世間話や仕事の話、たわいもない話を楽しんでいるのをよく見かけました。
そこは、いわば複数の業種の人たちが共同で使う喫煙室のようなもので(ガソリンスタンドでは安全管理のため事務所でしかタバコが吸えない)、地元だけでなく、いろんな地域からもたらされる様々な情報が集積・再配分される場所でした。そんな場所にオーナーとして常駐する父の耳には、様々な業界のいろんな情報が集まっていたはずです。

父の車に同乗して街中を走っていると、知り合いが乗る車が向こうから来るたびにお互いに軽くクラクション鳴らしたりとかして「あ、仲良い人がこんなにいるんだ」と驚いたり(そしてちょっと父が誇らしいような気になったり)したこともありました。

2. 僕の父についてー従軍・失業・起業・ひととなりー

そんな僕にとっては自慢の父がどんな人生を歩んできたのかについても触れさせてください。父は大正15年生まれ。(僕が生まれたのは父が47歳くらいなのでかなり遅めのこどもです。)島根県の農家で4人兄弟の次男。商業高校に進み、その後、呉の海軍工廠に就職します。太平洋戦争中だった当時、戦艦大和の主砲製造の予算管理をしていたのが自慢でした。

その後、徴兵され、戦争の末期に中国大陸に渡り、工兵として橋梁建設に従事します。河川の中での作業が多かったためにアメーバ赤痢に二回、コレラに一回感染し、病気療養中に終戦。
八路軍(中国国民党正規軍)の追撃を交わしながら、帰国に成功。帰国時には、迎えにきた家族すらも誰なのかわからないくらい痩せこけていたそうです。食糧難の当時でも実家が農家だったことで「毎日、好物の餅を食べてたら3ヶ月で体重は元に戻ったよ」と笑いながら本人は言ってました(が、父の死後、親戚に話を聞くとそんなことはなく、何年も痩せたままだったそうなので、なんでも笑い話にして相手を心配させず楽しませようとする父の豊かなサービス精神を後で知ることになりました)。

帰国後、父は地元の平田市(現在は市町村合併により出雲市)の舟運会社に就職しますが、鉄道インフラが整備されていくにつれてその会社は倒産します。
ちなみに、この時、平田市は地元の舟運産業を守るため国鉄の線路敷設に反対、結果、時代とともに街ごと廃れていくという「自治体版イノベーションのジレンマ」を経験します。

話がそれました。
会社倒産に伴い失業した父はどうしたか。
次は自分で会社を立てようと考えます。
特にやりたいことがなかった父は失業中の「時間だけは売るほどある」状態を生かして、連日、職業別電話帳をめくり、少ない仕事をカウントしていきます。
その結果、平田市にまだなくて将来性のありそうな仕事としてガス屋を選びます。

そこから会社を大きくしていく中で、危険物取扱者の免許を使って拡大しやすい事業としてガソリンスタンドも経営するようになっていく…というのが父のサクセスストーリーです。

僕は晩年の父しか知りませんが、若い頃の父は話好きで、会話の相手をいつも楽しませ、誰もが「また会いたい」と思うような人物だったそうです。
晩年は脳梗塞を患い、あまり口を開かなくなりましたが、それでも毎日、ガソリンスタンドの事務所に行き、現場の雰囲気を肌で感じるのが本当に好きな父でした。

3.  自分についてー公務員・起業・次の世代に残せるものー

そしてその後、3人兄弟の末っ子として僕が生まれます。
僕は父に商売の現場をみながら育てられたのですが、それは商売の楽しさ、面白さと同時に大変さ、厳しさも目の当たりにすることになります。
こどものころの僕には、大変さの方が印象深く、父のような大変な仕事ではなくもっと楽な仕事を望んだ結果、公務員の道を選ぶことに(とはいえ実際には全く楽はできないわけですがそれはまた別の話)。

僕が公務員になることを決めた時、父は「資格はできるだけ取っておきなさい。自分で何かやりたくなった時に必ず役に立つから」と言ってました。

結局資格取るようなことはしなかったですが、その後OIHの立ち上げ担当になった時、役に立ったのはこどもの頃に味わったあのガソリンスタンドで過ごした記憶でした。

ちょっと空いた時間で交流を生み、訪れた人たちの時間の価値を増やすにはどうすればいいのか、つい立ち寄りたくなる場所ってどんな場所なのか、どうやってつくるのか。こどもの頃過ごしたガソリンスタンドやそこでの父の振る舞い、誰も傷つけることなく愉快な空気をつくる父の姿などが僕の目に焼き付いていて、それを参考にしていたところは多分にあると思います。

そして今、自分のこどもたちに何を残していけるのかも考えます。
父と違って、自分の仕事場の空気をリアルには見せられないので、中々困るところですが、もう少し大きくなったら自分が企画するイベントに連れて行ったりとかできるかな?とか。
その延長で、今年の夏休みには、僕が仲良くさせてもらっている会社の見学に、家族みんな(僕と妻、9歳の娘、5歳の息子)で行ってきました。
見学させてもらったのは、Google、Yahoo! JAPANが運営するLODGE、三井不動産が運営する東京ミッドタウン日比谷内にあるBASE Qの三か所。
どこにいっても楽しくはしゃぎ回っていましたが、「楽しく働く」ことについて知る機会になったようでうれしかったです。


自分がこどもたちに何を残してやれるのか、物質的な財産はそんなに残せないと思いますが、僕の父が僕に残してくれたような無形の価値をできるだけ残してやりたいなと思っています。

僕が小さかった時、父が「こどもは店には出てくるな」みたいにしなかったことによって、今の僕がある。
あの頃の、父の話す言葉や父の周りに漂う「なんとなく人が集まってくる独特の空気感」を思い出すと今自分がやっていることと何となく重なり、嬉しいような誇らしいような、そんな気持ちになるのです。

改めて亡き父に感謝を。
そして願わくば自分がまた次の世代にも何か大切なものを残せますように。

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