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日記 11月7日(土)

通院日。
平日は蒼黒い制服を着た憂鬱そうな高校生や澱んだ色のスーツの勤め人で満杯の電車だが週末の今日は秋空の暖かい日差しが入り込む余地がある程度には空いていた。
ちらほら見える乗客も白や空色のこざっぱりとした服装でおそらくは平日の泥人形のような乗客の一人なのだろうがそんな気配は微塵も感じられない。
どの顔も楽しげで連れ立って遊びに行くのだろうが自分だけが予定もなくただ病院に行くのみかと思うと胸の奥からじわじわと惨めったらしい感情がにじみ出てくる。
いつも満員の車内で見かけるずぶ濡れの女子高生は差し込む眩い日光を避けるように列車の連結部に立っていた。

受付の職員は患者に余計な感情を起こさせないよう素っ気なく振る舞っているようだが、心の病を伝染(うつ)されないように心を閉じているようにも見える。
待合室ではやたら背の高い青年が母親らしき女性に付き添われて座っており無表情のまま延々と昨日の日経平均株価の解説を唱えている。
「景気敏感株を中心に幅広い銘柄が物色され日経平均の上げ幅は一時280円を超えた想定外の株価上昇ペースにヘッジファンドなどの短期筋が買い戻しを迫られたことも一段高につながった東証1部の売買代金は概算で2兆5831億円売買高は12億3212万株だった東証1部の値上がり銘柄数は1367と全体の63パーセントを」
母親はどうにか青年を黙らせようとしているがここでは珍しくもない光景なので好きにさせておけば良いのにと思う。
丸めたハンドタオルを母親が青年の口に押し込んだところで自分の名前が呼ばれて診察室に入る。

「どうですか調子の方は」
表情が笑顔のまま固まっている医師にお決まりの台詞で尋ねられる。
「はあ、良くも悪くもないといった感じです」
「そうですかそうですかそれなら良かったははは」
「良かったですか」
「変わらないというのは良くなってる証拠ですよはははは」
「メンタルがおかしくなって療養休暇を取ったのが昨年の今頃でして」
「おやそうでしたかそうでしたかははははは」
「仕事に復帰出来たとはいえあれから良くなってる実感や兆しがないことに不安もありまして」
「みんな思うことですみんなそうですそうですともはははははは」
「こういうのってきっちり治ってくれるものなのでしょうか」
「焦らないことです焦らずにゆっくりやっていきましょうははははははは」
「そういうものですか」
「そういうものですお薬は前回と同じでよいですねははははははは」
「それでお願いします」
「分かりましたでは処方せん出しておきますねお大事にあまり思い詰めないようにねはははははははは」
「ありがとうございました」
「はははははははははははははははははははははははははははははははは」


診察室を出ると口にハンドタオルを詰めた青年が待合室の白い壁にごりごりとボールペンで日経平均株価の解説を刻んでいた。
「6日の東京株式市場で日経平均株価は4日続伸し前日比219円95銭高の2万4325円23銭で終えた1991年11月13日以来およそ29年ぶりの高値水準朝方は最近の急ピッチの相場上昇の反動で売りが先行したが間もなく切り返した米大統領選の結果が近く判明するとの期待で前日の米株式相場が大幅に上昇しており投資家は」
母親はさめざめと泣いているが受付の職員は特に感想はないといった表情で会計を済ませて処方せんと領収書を渡してきた。
米大統領選の株価への影響は予想よりは限定的と書かれたところで病院を出る。

食欲もないので昼食は駅構内の立喰蕎麦屋で済ませる。
券売機で券を購入。
「かけ」「月見」「わかめ」「きつね」「夏至」「コロッケ」「春菊天」「肉」「肉(錆)」「かき揚げ」「蜘蛛猿」「海老天」
いつもの春菊天に奮発するつもりで玉子を追加したが良い食い合わせではなかった。選択失敗。
蕎麦はいつもの如く旨くも不味くもない。

せっかく足を延ばしたので駅ビルの書店で時間を潰す。
棚に手を伸ばすと「1分で話せ!大事なことだけシンプルに伝える技術」と「ビジネスマンのための最新数字力養成講座 」の間からフナムシのような胴長の虫がちょろちょろと出てくる。
紙魚(しみ)だった。
古文書や掛軸を喰い荒らすこの虫が新刊書籍ばかりの書店にいるのは驚きだったが紙魚が爪の間に入り込もうとしたのにはさらに驚いた。
慌てて紙魚を潰すとその腹から喰われた活字の断片が飛びだし指にまとわりつく。
「売上が目 に到達し  どうか見極め 力のこと  部門や支    」
「の  利益率の違いに気づ   削る きコストを見つ  統計解  」
「 の知識  Pow  tabl uなどのツールを自  るスキルの ビジネ 
 ス パーが  数字で理解でき  説明できなけれ  業務を数 るのは
 もちろ  業務領域につ て 瞬時 解で  能          」
書籍の文字は欠けてしまっているだろう。いらぬ疑いをかけられる面倒を避けようと指についた活字を拭って早々に書店を後にする。

時間はまだ15時半を少しまわった頃だが電車内に射す陽射しには既に夕闇の色が陰っている。
午前中は爽やかだった乗客の顔にも憂鬱の陰が幾ばくかの色を落としている。
日が陰った車内にはずぶ濡れの女子高生が立っておりごぷごぷと泥の混じった水を吐き出している。
彼女の足元には徐々に泥の小山が形成されていく。
いつもどおりの日常の光景に車内は行きの時よりも居心地が良くなっていた。

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