見出し画像

日本語のWikipediaって信用出来るの?

Wikipediaを信じてる?


一般人がWikipediaに対して多少懐疑的な目で見ているのに対して、音楽関係者、とくに個人ブログで音楽の事を書いてる人とかは信じられないくらい鵜呑みにする人が多いのに驚く。
単純に僕が目についた人がめちゃくちゃリテラシー能力が低いだけなのかも知れないが、僕の感覚から言わせてもらうと個人、セカンド・クリエイターとは言え、発信者がこれを疑う方が真っ当だと思うのだけど、現実は逆。
とても不思議に思ったので、どうしてこうなってしまうのか考察してみた。

まず、大前提として編集する際はその証拠と言うか、ソースとして出典元の記載が必要になる。なので根拠の無い話や、嘘は書けない事になっている。

そもそもWikipediaはアカデミズムのために存在するものだと思うので、芸能人のプロフィールや音楽のジャンルやアーティストを調べる事が主たる存在理由では無いと認識している。(誤解の無いように書くが、それらを無くせとは言っていない)
なので、そう言った項目に関しては信頼はしている。

しかし、多くの人が本当にオンライン辞書+日本タレント名鑑と認識している気がする。
ここは信じて良い範囲では無いと僕は思う。

しかし、ここまでは実は全く問題が無い話だ。
問題は出典元がアカデミックな書籍や資料ではない場合に発生する。

Wikipediaには音楽の事も多く書かれている。
ジャンルやアーティストの項目が多数ある事は皆さんご存知の事だろう。
noteをチェックするような層には既に常識かも知れないが、これらは販売者側の都合で編集されている。
要するにニュースサイトにプレスを送るのと同様で、広告なのだ。
日本のメジャーレーベルが手を引いた以降のリリースは一切記載されてない海外アーティストのWikipediaを見た事は無いだろうか?
日本語版ではスカスカでも海外版のWikipediaを見るとけっこう詳しく書かれている事も少なくない。

また、ジャンル本やディスクガイドの類を出典元にしている場合はさらに驚愕の自体が発生する。
これらの中には酷い本だとWikipediaや商品ポップ(オンライン販売の紹介文)を見て書いているものがあり、出典元がWikipediaなのにも関わらず、Wikipediaの出典元がその書籍となる謎のループが発生する。
一部の人間にとって都合の良い事しか書かれていない怪しい項目が出来てしまうのはこのためである。

そもそも全知全能の神でも無い限り万人が納得するジャンル本など書けないのだが、これをエンターテイメントでは無く、アカデミズムと勘違いして鵜呑みにしている人が多い事に驚愕した。

無料病

いくつか原因を考えてみたが、一番大きいのは「無料病」だろう。
情報はインターネットを少し調べるなんでも出てくる時代だ。それどころかTwitterで回ってくる情報が全てのような人も少なくない。

全ての有益な情報が無料で得れると思ったら大間違いである。
また、無料で得た情報にいいねが付く事自体にも疑いの目を向けるべきところだが、類は友を呼ぶ。
同じように無料病の人々から「いいね」が集まるので発信する側も自分を信じて疑わないのである。

承認欲求の虜


また、こう言った行動に出る者はセルフイメージが低く、出来るだけ身近な人間の共感を得ようとする。つまり、不安を解消するために権威を求めてWikipediaを参照するのではないだろうか。
その行く末は、多くの場合承認欲求の虜となるのだが…。

無料であらゆる情報が得られる昨今で、情報格差が起きるのはなぜか?

行かない、買わないけど、その情報は誰よりも知ってる事をアピールしたいし、発信して「いいね」が沢山欲しいと言う浅ましい人がとても多い。
彼らは「情報」に興味があるのでは無い。発信者である自分に酔っているだけなのだ。
今回の話は、こうした承認欲求モンスターとセカンド・クリエイターが並列で置かれる事で起きるややこしい問題なのではないかと思う。

タダほど高いものは無いと言うが、企業や著名人にブロックされている一般人が居る事をご存じだろうか?
広告にも除外キーワードと言う項目があり、意図して届けない情報と言うのが実は世の中にはある。
商品を買った、映画を見た、音楽を聴いたあとのツイートで、ついつい一言余計な批判を追加する人、普段からプロモツイートに不適切な内容をリプライする人、愚痴ばかりツイートしているは既にあらゆる箇所からブロックされているかも知れない。

顔を知らない間柄、インターネットの世界とは言え、リスペクトと礼儀を持った人としか繋がりたくないのは誰でも同じだろう。

インターネットが全て正しいとは限らないと昨今言われはじめているが、無料利用できるSNSやブログ、スマートフォンが普及し、国民総発信時代となった今必要なのは“現場に足を運び体感する事”だと僕は考える。

悪意の有無に関わらず、とりわけ無料病に冒された人々を容認してしまっているインディーズの未来はけして明るいとは言えないかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?