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#69 『理詰め』と『理不尽』の間で

2024年9月某日

年度という単位で、数字遊びに奔走しているプロ・サラリーマンの皆様、お変わりなくお過ごしだろうか。うっかりしていたら、前回の寄稿から随分時間が経過していた。社会人になると、時間感覚が短くなるという話(ジャネーの法則とか言うらしい。)について、かつては「んな、あほな。」と揶揄していたが、現在ではそれが事実であることを、日々、必死にワカモノに説いている。なんだか寓話のような話である。

さて、筆者はサラリーマンとして、地域のしごとに携わっているが、その最大の魅力は、「会社」というプラットフォームを介することで、自分のアイデアにレバレッジを効かせて社会実装にトライできる点にあると思っている。このあたりを含めて、会社に帰属する良さは小さくないので、無責任に「会社員ダメ!独立が良いヨ!」とは言えないのである(無論、独立・自由業の良さもあります、念の為)。

一方、会社というプラットフォームを活用する場合には、コストも発生する。具体的には、「組織におけるコミュニケーションのコスト」が大きいだろう。例えば、会社のリソースを借用する際には、決裁などを突破する「説明のプロセス」が求められる。コミュニケーションのコストは、「決裁ラインの顔ぶれ」によって大きく上下する、振れ幅の大きいコストである。そして、「決裁ラインの顔ぶれ」は、「人事ガチャ」というランダムネスの結果に依存することから、全くもってコントロールができない外部変数である。そのようなシステムのもとでゲームをプレイしていると、しばしば、「悩ましい状況」に直面することとなる。例えば、「理詰め」や「理不尽」などは、よく知られる「悩ましさ」の典型と言えるだろう。

そもそも、「理詰め」や「理不尽」の定義とはどのようなものだろうか。少しネット辞書で調べてみた。

りづめ【理詰め】
 思考・議論などを、論理・理屈で押し通すこと。
りふじん【理不尽】
 何らかの物事を道理にかなわないやり方で行う態度・様子のこと。

Weblio辞典

これらの定義を俯瞰してみると、「理詰め」では「(前略・・)で押し通すこと」とか、「理不尽」では「(前略・・)道理にかなわない(・・後略)」などと、いずれも「不快」な要素が含まれていることがわかる。なるほど、確かに不快である。一方、両者を言い換えてみると、「理詰め」は「論理的で正しい」と表現することや、「理不尽」は「情緒的で論理を超えた判断」などと表現することもできよう。でも、実際、不快なのである。このように、論理と感情の両端に位置する二つの概念が、いずれも不快であるというのは、不思議なものである。

では、快適なスタンスとはどこにあるのだろうか。これまでの考察からすると、「理詰め」と「理不尽」の間、すなわち「論理」と「感情」の間に位置していると想像できる。もう少し考えてみたい。この中間的な場所に位置した「バランスされた」状況が「価値が高い」とすると、おそらく「論理」と「感情」を結びつける「橋(グラフ)」の形は、「直線」ではなく「つりがね」の形をしていると想像される。具体的には、「論理」と「感情」のバランスが取れているほど「価値が高い(y軸の値が高い)」ということである。

これらを踏まえると、同時に、「バランスすることの難しさ」にも気づくことができる。なぜなら、「論理」と「感情」は「つりがね」の形をしているから、ちょっとでもどちらかに寄ってしまうと、途端に片側に転がり落ちてしまうからである(すべり台みたいなこと)。

地域のプロジェクトを前に進めるには、「バランスが大切だ」などと言われたりするが、バランスとは「どっちつかずの人」という消極的なものではなく、「高次元で両立している」という高度で意識的な「佇まいのスキル」なのである。知らんけど。

ほなら。

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