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苦手は克服すべきか

2020年11月8日開催
飯山総合学習センター主催
ファシリテーター杉原あやの

 11歳から18歳の4名の参加者と、「苦手を克服すべきか?」をテーマに、哲学対話を行いました。主催は、まんのう町立図書館、ファシリテーターは杉原が務めました。
 今回のテーマは、Tetugakuyaでお会いした高校生のサナさんのモヤモヤした想いを問いにしたものです。
 当日は、哲学対話のルールを説明した後、テーマからどのようなことを思ったり、考えたりしたかを言葉にして頂きました。

 箇条書きは、参加者の発言を示します。丸カッコは杉原が補足した文章です。当日のメモを参考に、できるだけ参加者の表現に忠実に書くよう努めました。小見出しは、杉原が執筆の際に書き加えました。


「苦手」について

・数学や理系が苦手で、それを克服しようと思い、学校で理系を選択した。すると、苦手な理系の授業数が多くなり、好きだった国語は、週に2時間ぐらいになった。勉強時間が理系に取られてしまい、得意で好きなことが時間的にできなくなった。今日も数学や理科ばかりだと思うと学校にもそんなに行きたくなくなるし、全体的にモチベーションが上がらなくなった。好きだった国語の教科についてもモチベーションが下がってきてしまった。

・数学が苦手だったから文系に進んだ。数学が苦手だという意識を持っているので、自分は数学できないのだと思うことで、全体的に自信がなくなってしまう。他の教科は楽しいけど、苦手な数学にひきづられてしまう。



・「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるように、好きだったら達成できると思う。苦手と思っていても、自分の中で「好き」ということに変えて行ったら克服できるんじゃないかな。

・苦手なことを克服するのはいいと思うけれど、好きなことができなくなるほど、苦手を克服しようとしたら、好きなこともできなくなってしまうと思う。苦手なものを克服するのはほどほどにしておいたほうがいい。


苦手克服と選択肢



・克服できるならしたば、克服したほうが良いという話になるのは、そのほうが選択肢が広がるからではないかと思う。全部の教科ができたら、進学先を選ぶときに色んな学校を選ぶことができる。一方で、全部の教科ができなくても、国語の得意な人に入学して欲しいから、テストは国語だけにしますという学校(試験の種類?)もあると思う。実技なら、ピアノが得意な人に来て欲しいから、テストはピアノだけにしますというところもあると思う。
 自分の能力を最大限に生かすなら、得意なことを伸ばすほうが、より楽しいし、モチベーションも上がるし、より頑張ろうとできる。



・苦手を克服して、選択肢を広げるか、無理に克服せずに自分の得意なことで行くかどうか。もし苦手を克服した先に何かやりたいことがあるのだったら、大変かもしれないけど、頑張って克服するという方法もある。逆に、克服しなくてもいい選択肢の中で自分のやりたいことがあるんだったら、好きなことを極めて行くこともできる。
 なぜ克服した方がいいのかということについては、苦手を克服した先に何かあるんだったら克服したほうがいいのかな。



・将来の職業でなりたいものが理数系だったら理数系に力を入れて頑張ったらいいと思う。将来の夢がはっきり決まってないのなら、苦手を克服して選択肢を広げておてい将来の夢を見つけるのが大切。



・将来になりたいものが決まっていなくても、好きなものは今の時点でも決まっているような気がする。将来なりたいものがはっきり決まってないから、今のうちに苦手を克服するというのではなくて、苦手なことを克服した先に何かがあるから克服すると考える方が腑に落ちる。


評価基準



・国語のテストで100点と、数学で20点を取るような点の取り方をする場合と、全部の教科で50点を取る場合と、総合点がどうなるのか。もしかしたら、自分の得意なもので点数を取る方が、総合点が高くなるかもしれないし、全部の教科で50点を取る場合と、同じ総合点になるかもしれない。総合点を見てもらえるのであれば、どちらの選択肢もありだと思った。
特定の教科だけを見られるのであれば、(その教科が苦手であったとしても)苦手なところを克服してその教科の点数を伸ばさなければならないと思う。得意な教科だけを見てもらえるのであれば、得意なことだけ頑張ってもいいと思う。どこを見られるのかで変わってくるかもしれない。
 苦手って思ってるのは、他人から見て苦手なのか、自分から見て苦手なのか・・・。自分から見た苦手の方が大きいのかな。自分から見て走るのが遅いと思っていても、他人から見たらめっちゃ早いのかも。苦手って思っているのは、自分だけなのかな。



・「自分から見ての苦手」と「他の人から見ての苦手」の意見があった思うけど、直したいという思いは、自分の中であるのだと思う。自分のおっちょこちょいなところを、他の人に話したらそんなこと大した事ないと言われる。だけど自分はやっぱり気にするから。自分が直したいと思ったものだけ直したらいいと思った。
 学校から、あなたはこの教科ができてないからやりなさいと言われても、家の人から苦手な事直すように言われても、やってみようと思ったらやるかもしれないけど、好きじゃないし苦手でもいいじゃんって思ったら、克服しなくてもいいじゃんって思う。是が非でもしないといけないこともあるのかもしれないけど。人から言われることまで(直さないといけないのかな)・・・本当に直さないといけないこともあるけど。


勉強以外の「苦手」



 苦手の話で学校の勉強の話題が大半を占めています。将来のためであったり、選択肢を広げるためにも苦手は克服できるならばした方が良いという考えもありました。けれども、50歳になっても、80歳になっても、苦手なものはあるのではないでしょうか。杉原の祖母は80歳を過ぎていてムカデが苦手です。それは克服した方が良いのでしょうか。




・よく祖母が、ご飯出すときに、レーズンが嫌いて、絶対食べたくないって、祖母もあんこが嫌いで全然食べれてなかったけど、大人になるにつれてあんこが好きになって、嫌いっていう意識がなくなったって言ってた。教科も今は嫌いって思っててもこれから大人になるについれて自然に好きに変わって行くんじゃないかというのが私の意見。



・親や学校が言っている苦手なこととかは、例えば、水泳が苦手で水泳行ってみなって言われて実際行って見たら、友達ができたり、楽しかったりしたので、自分が行きたくないなって思っていても、ちょっと行って見るというのもいいのかもしれません。




杉原:苦手なことも、誰と一緒にするか、どんなところでするか、環境によって変わることがあるのかもしれません。やってみて「やっぱり自分はこれが苦手だ」と改めて確認するということもあっていいのかもしれません。

・初めから決めつけるのではなくて、一回手を広げて見る。やって見る。それから決めて見るというのが大切なのかなって思った。

・苦手は、生きる中で克服しないとなって思うことはあるかもしれないけど、虫が苦手。虫だけは触れない。そんなに克服しないといけないと思ったことがない。虫を見たら、見ずに違うことを考えている。苦手なことがなかったら逆に楽しくないんじゃないかなと思いました。



杉原:苦手な虫は人生を楽しくしてくれていますか?



・都会に行けば、虫を見なくなるって従姉妹が言っていたの。うちは家が田んぼに囲まれているので、虫よく見るけれど、弟が私より虫嫌いなので、弟が虫を見てキャーキャー騒いでいるのを見ると楽しい。虫にも罪はない。蚊が居なくなったら池とかが汚くなると聞いたので、虫がいなくなったらいけないんじゃないかな。




・好きな虫と嫌いな虫がいて、好きな虫は本当に虫は本当に好き。嫌いな虫は本当に嫌い。あの虫わいいよねとか、嫌いだよねって友達と話せる。好きな歌い手さんが虫が嫌いだって虫について歌っていて、そういいうことがあるのは、楽しくしてくれていると言えると思う。



・嫌いなことがあることによって、これ嫌いやんなって友達と繋がりが持てたり、逆に好きなことへの思いが行ったり。苦手なことがあることも結構悪くないんじゃないかな。

問い


今までの対話を通じて出てきた疑問を「問い」の形にして出し合ってもらいました。
●「苦手」はダメなこと?
●(苦手を)克服しないと人生は楽しめない?
●昔「苦手」じゃなかったことが苦手になることもある?
●もし「苦手」がなければ、友達との関係はどうなっていたか?

皆さんが出された問いを踏まえつつも再び対話に戻ります。



「苦手」があることの良さ

・苦手はダメなことじゃないし、あってもいいと思う。苦手なことがあることで、他の人の気持ちも分かるんじゃないかな。歌詞の中に虫が嫌いっていうのがあるから、それに共感できるっていうのもあったと思うけれど。虫が嫌いな人じゃないと虫が嫌いな人の気持ちが分からないと思う。苦手って不利なこと、よくないこととみなされているけど、人の気持ちをわかってあげられる。



・最初は、自信がなくなるのにつながるから、苦手は良くないと思ってた。苦手なものをだんだん好きになったり、習い事に行って嫌だったたけど好きになったりと、みなさんの意見を聞いて、(苦手というのは)まだ好きになる可能性があるものなんだなって気づいた。苦手はあってもいいんじゃないかなと考えが変わりました。



・苦手は、ダメなことではないと思います。例えば、好きだとしたら、好きなことはいいと思うけど、例えば、服選びをするときに、買うときに悩む。苦手なものがあれば、この服は苦手だから嫌だなと思って、選択肢からその服が消えることがあると思う。好きなものがありすぎると、離したくなくなるということがあると思う。



・選択するときには、選択肢がいっぱいあった方がいいと思っていた。3種類の服からしか選べないより100種類の服から選べる方がいいけど、選んで決めるときには、苦手も一つの判断の基準になる。苦手がある方が、迷う範囲が狭まるかも。これって決められる確率が挙げられるってことだと思う。



・選択肢が広がるのもいいなって思うけど、選択肢が狭まるのも後悔しなくていいなって思ってます。

・選択肢がないというのは、逆に大変なんじゃないかと思ってたけど、選択肢が多ければ多いほど、こうしてればよかったなって思うことがあるのかなって。どっちの方がいいのかなってお思いました。



・選択肢が一つに決まった方が、私は、どう道筋を立てていけばいいか、スッキリしてて腑に落ちたので、その方がいいなって思った。数学のクラスにいるけど、文系の大学に行くぞって決めた。その大学に本当に行きたいなって思えた。他に目移りしない。一点集中できた。選択肢が少ない方がこれだと決められたからよかった。

「苦手」と他者との関わり

・選択肢を苦手なことで絞って行くという話について、歌い手さんの虫が嫌いという曲のことを考えると、苦手だからこそ共感して、苦手なことによって、その一つが輝いて際立って見えるということがあるのではないかと思いました。共感によって、選ぶということもあるのではないかって。苦手によって選び方が増えていいな。
※話題に上がった曲は、youtube 「虫が無理」ストプリ ルートクンというメンバーが作った曲だそうです。



・「共通点」っていう言葉が印象に残りました。よく聞く友達の作り方は、好きなことが一緒、趣味が一緒ていうのが友達の条件。苦手なことっていわゆるコンプレックスでもあって、人に話しにくい。それさえも話せるって、より心を許せる。

・給食でレーズンが出る時には、レーズンが嫌いなので、「今日レーズンが出るらしよ」と友達に話題になる。レーズンが好きな子もいるので、(人それぞれ)自分とは違う好き嫌いがあって面白い。盛り上がると思う。

・私はレーズンは好き。給食でレーズンパンが出るときは、レーズンが苦手な子がいたので、もらって食べていた。その代わりに、トマトは苦手なので、トマトが出た時には、トマトを友人に食べてもらって居た。

 誰かの「苦手」が、別の誰かの役にたつことがあるのかもしれないと思いました。例えば、克服の出来なさについて書かれた詩が誰かの心を動かしたり、誰かの救いになることもあるかもしれません。誰かが苦手でできないことを代わりにやってあげることがビジネスになる、なんてことも考えられそうです。


「苦手」の確認作業

・苦手なことに一回向き合うことが大事。苦手だと判断するには、ちょっと知ってみようとすることや、ちょっとやってみようとすることが大切なのかも。試してみることで、意外と出来たことや、本当に苦手だということも、分かるかもしれない。

・食わず嫌いが私にも弟にもある。挑戦してもいないのに、これは美味しくないと脳が判断してしまうので、一回挑戦することを大切にしてゆきたい。

 皆さんの意見を聞いていて、ふと、得意だけれどもやりたくないことってあったりするのだろうかと思いました。人よりも苦労しなくても出来てしまうことを、どんどん進んでやればプロフェッショナル になれそうなものですが、人よりも苦労せずにできてしまうのに、それをやることは特に好きではなくて、別の道に進むというケースも考えられそうです。もしかすると、「出来ること」と「したいこと」は違うのかもしれません。自分にとって何が「出来ること/出来ないこと」、「苦手なこと/得意なこと」、「好きなこと/嫌いなこと」なのでしょうか。自分のことを知るために、色々と試してみることが大切なのかもしれません。


克服する予定が特にない事柄

苦手をなるべくならば克服しようとする皆さんの意見を聞いて、特に克服する気が起きないものが無いか伺ってみると次のような発言がありました。

・パクチーは食べたことないけれど、無理だと思っている。パクチーを挑戦して克服した人の想いも想像できないので、どんなものか分からない。

・辛いものやワサビだけは、一生食べたくない。

 皆さんの発言に加えて、杉原は、ナマコや昆虫食について克服することは無いだろうと思っています。ワサビも苦手なので、外食をするときなど、食べなくて良さそうな時はワサビ抜きを頼みます。ゴキブリ嫌いもおそらく克服することは無いでしょう。無理に克服しなくても構わない苦手もありそうです。


哲学対話を終えて

 今回は、小学生の参加者が2名と高校生2名という組み合わせになりました。高校などで専門分野が分かれることや、入試のことが話題になると、小学生の参加者には馴染みがない内容だったかと思います。それでも、「苦手」と「選択肢」の問題や「苦手」があることによる他者との関わりなど、具体例を出されながら、みんなで対話をすることができていたのではないかと思います。お互いに、尊重し合いながら対話がなされていたと思います。

 前半では、苦手について克服した方が良いのではないかという意見が多かったように思いますが、後半では、苦手があっても良いのではないか、という意見が出て来ました。参加者の発言を聞いて、それぞれの人の「苦手」は、それぞれの人の個性なのだろうか、とも思いました。
 絶対に克服した方が良い「苦手」と、無理をして克服しなくても良い「苦手」があるとしたら、その違いは一体どういうものになるでしょうか。簡単に克服できるようなものならば最初から「苦手」ではないのかもしれません。もちろん、思い込みでよく知らないものを「苦手」だと思っているだけかもしれません。「苦手」とはそもそも何でしょうか。「苦手」はどこから来るのでしょうか?
 また、「苦手」によって選択肢が狭まることが良いことだという意見についても、もう少し考えてみることができたかもしれません。
 もしも、克服しなければならない「苦手」があったとして、克服できなければどうしたらいいのでしょうか。きっと大きな壁にぶつかったように感じられて大変だろうと思います。けれども、そういうことは人生には時々あるのではないでしょうか。そんな時に、どんな風に考えることができるでしょう。哲学対話で、思考や対話の練習をすることで、いつかそんな壁にぶつかった時にも、何らかの形で助ければと思いました。

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