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埼玉を南から北へ。

こんにちわ。僕です。そして今日もいつもの埼玉研究記事です。
今回は川越です。「埼玉の内情なんて、知ってられっか!」って声がまた聞こえてきそうですが、川越くらいは全国的にも御存知でしょうか。
埼玉県の北西部(体感)にある観光都市「川越」。川越と言えばなんでしょうかね。
「小江戸と言われる歴史の建物が保存されたレトロな古都」は景観が素敵です!
うなぎや蕎麦などグルメも良いし、しゃくしな漬けなど漬物屋も多いし、何といっても名産物は「さつまいも」、いもそうめんとか美味しいです!
ところで、「月がきれい」だねと言われると、ちょっと照れますか? 夏目漱石いわく、愛の告白「I Love You」の訳が「月がきれい」らしいので、うっかり言えませんよね。
川越を舞台にしたアニメ「月がきれい」は僕も履修済みの名作。小太郎くんと茜ちゃんがいそうな雰囲気で、世界に誇る日本最高のサブカルチャーであるマンガ・アニメの聖地巡礼も楽しいでしょう。他にも観たことはないですが「恋する小惑星」「神様はじめました」「まえせつ!」らの聖地でもあるようです。

アニメ「月がきれい」HPより。
本川越駅の自販機。西武新宿駅も同じのがあります。

ただ、言いにくいことを正直に言うと、僕は今回は川越の街の魅力や観光名所やグルメなどをあまり描きません。ぜひぜひ、noteの検索で「川越」と調べ、いろんな人が良き川越観光記事を書いていますので、ぜひそちらをご覧ください。

僕はマニアックな見方で書きます! 「東京から川越までに至る街道とその周辺の町!」
今回は川越にすらたどり着けないため、川越ぽさは、川越以外の町と川越とのつながりで感じてください! 川越の感じが、随所に漂うとは思います。

え? しゃらくせぇ? めんどくさい?
つまらない?

すいません。なんならもう、川越に来て!
…川越は今度じっくり調べます!(ネガティブな性格ですいません)
代わりに最後に別のアニメの聖地巡礼をおまけで載せておきます。川越につながる道の考察なんかより、観光と聖地巡礼が良い方は、下の目次欄から飛んでください。ちなみに何のアニメかはお楽しみ。

今回のメインは、前回の「清瀬から浦和へ」の続編です。同時に、荒川とその支流の研究であり河川から埼玉を探るシリーズの1つ(以前は中川と江戸川を描いた)、そして僕の前作「街道の街・埼玉」のシリーズでもあります。一応、僕の書きたいシリーズです。

前回は清瀬から新座を横断し、志木を経て浦和に入った記事を描きました。

今回は、志木から北を描いていきます。

川越を探せ!
って、意外と南部ですね。東武東上線で池袋から川越まで40分くらい。
ちなみに西武池袋線で我が地元の飯能まで50分~1時間。そんな飯能も実は埼玉最南部なんですね。
(飯能の南は東京の瑞穂町と青梅市)

はいはい、「埼玉のピークは春日部市とさいたま市と川越市」とか「それより北はほぼ群馬か栃木」とか思わな~い!
ちなみに、西はほぼほぼ山!!東の黄色いゾーン(東武)がほぼ平地かな。
北の県境は利根川で区切られ、羽生から中川が黄色いゾーンに並行して流れる。
秩父、長瀞、寄居、熊谷、そしてピンクゾーンとグリーンゾーンの境目が荒川です。
今回のターゲットは、朝霞市・志木市・三芳町・ふじみ野市です。うっほ、埼玉を描くにしては狭い界隈!?

川越へつながっていた「川越街道と新河岸川」

川越は「小江戸」と呼ばれ埼玉の中でも歴史のある町で、戦国時代には太田道灌によって作られた川越城があり武蔵国支配最大の拠点として、江戸時代には幕府の北の守りとして発展した町で、今でも県内では「さいたま市」「川口市」に次ぐ人口3位の都市であり、古い町の景観が残る観光名所である。

埼玉県HPより。

川越街道はもともと太田道灌が江戸城と川越城を結ぶ道路としてつくられた。川越街道の整備を行った川越藩主・松平信綱は、あの江戸時代いや日本史上最大の一揆である「島原の乱」の総大将(板倉重昌の戦死後)であり、ポルトガル人追放やオランダ人の出島隔離など鎖国政策の完成を取り仕切った人物である。
信綱はその功績で北の守りである川越を与えられたが、その後も川越街道の整備だけでなく、新河岸川の整備や野火止用水開削など川越藩の基礎を作った人物である。その後は老中首座となりさらに4代将軍家綱の補佐も行った。

現在の交通の大動脈は新河岸川と川越街道の間にある東武東上線である。
かつては、新河岸川と川越街道が賑わい、そして今の埼玉県の朝霞・志木・富士見・ふじみ野などの東上線沿線の町の基礎をつくったのだ。
今回は東武東上線を追いかけながら、周辺の歴史を郷土資料館とともに川越街道と新河岸川沿線の人々の様子を描いてみる。

朝霞、かつての膝折宿

まずは朝霞市博物館を通じて、川越街道を描写する。
川越街道は中山道の脇往還(バイパス)としても用いられた。
中山道は日本橋から本郷(文京区)を経て巣鴨村から板橋宿を最初の宿場とし、すぐ北の荒川を越え埼玉の戸田市(戸田の渡し)を越えると、蕨、浦和、熊谷などを経て群馬の高崎(ここまで今のJR高崎線沿い)から軽井沢、信濃こと長野へ。
川越街道は中山道の板橋付近の平尾追分(追分=街道が2手に分かれるところ)から分岐して、上板橋、下練馬、そして白子(和光市)の宿場を通ると、川越までの四番目の宿場として、膝折宿ができた。
膝折という奇妙な地名は、室町時代に小栗判官が賊に追われたとき、鬼鹿毛という馬がここで膝を折り亡くなった場所が由来とか。
僕の勝手な推測だが、土地の様子から名付けられたかもしれない。朝霞は、所沢や清瀬と新座の西に隣接し関東山地が東に伸びた武蔵野台地が広がる。そのすぐ東は荒川と荒川低地に挟まれ、勾配のある形から膝が曲がるように角張るから膝折か。

埼玉県HPより。野火止台地が新座あたり、川越の北が坂戸。武蔵野台地を荒川が削り谷底となり、荒川低地ができたのでしょうか。柳瀬川も西から流れ新河岸川と合流するため、川に恵まれているといえど、すぐ近くに小高い台地がそびえ立っていたのかもしれません。

膝折宿(朝霞市)、大和田(新座市)、大井宿(ふじみ野市)を経て、川越に入る。

川越街道はまずは朝霞市から見ていこう。

JR武蔵野線朝霞駅、隣接する東武東上線朝霞台から南へ。東洋大学朝霞キャンパスの奥を目指します。
埼玉を南北に結ぶ東武東上線。東西に結ぶのが武蔵野線。
入るやいなや、縄文時代の竪穴住居がお出迎え。
おっかさんが料理をし。
おっとさんが弓をこしらえ。
 娘さんは何をしてるのやら。蚊でも追っているのかね。

下のパネルに書いてあるよう、川越街道は川越を抜けると、松山宿(東松山市)に入る。松山宿は、熊谷往還と、日光脇往還という八王子からわが地元の箱根ケ崎に入間の扇町屋に日高の高萩、そして坂戸を経て松山に入り、以前レポートした館林を通り日光に向かう。
今の鉄道が分岐するが如く、当然ながら街道も様々分岐していた。
(下はアニメの聖地巡礼とともに館林を訪れ、日光脇往還に思いを馳せた記事)


川越街道について。
(今更ながら、やっぱ東上線はマイナーなのかね…?川越の北の川島町、坂戸に鶴ヶ島、東松山に嵐山に小川町…  「知るか、そんな秘境!」って言っちゃダメ… 川島町の秘境ぶりは、トップにある「清瀬から浦和へ②」の記事にて。)

話を川越街道に戻すが、大名たちは中山道を、役人たちはこの脇往還を行き来していたようだ。また、中山道は荒川を越えなければならず、不便だったろう。川越街道は割と賑やかな街道であったのではないか。

膝折宿の図。くたびれて膝が折れたのかもしれぬ。ここで宿や食事をとったり、荷物を溜めたり、情報を集めていたのだろう。

宿場町から離れた、農村や山間部から、ふらっと必要なものをそろえに宿場町へ買い物に来たり。
作った農作物などを売りに来ていた農家もいただろう。
おとぎ話の「笠地蔵」のように、家で物をこしらえては、必要なものを売り買いに行くのが人々のスタンダードだったのではないか。

さて、川越街道に沿う新河岸川についても触れておこう。川越から人や荷物を舟で運んでいた。特に舟は、馬や人手しか使えない陸路と違い、重い荷物も大量に運べる。

上のパネルにあるように、高瀬舟には現地で仕入れた、だいこん、にんじん、さつまいもなどの根菜類を江戸へ出荷する。または石灰や石材・木材など。江戸からは衣類や米、酒や魚や塩(内陸部なので)や肥料など。

やはり台地や丘陵地帯のすぐ東に新河岸川。荷物を扱う問屋は台地上にあったため、船着き場まで荷物を下ろすには急坂を上り下りしていたようだ。

急坂ぶりが見えるでしょうか。

台地上に農業を営んでいたので、根深い作物が多かったのか。昔は一汁一菜、漬物も人気だったし味噌汁にいろいろな野菜も入れていたのだろう。また、「野菜のお煮しめ」などは祝い事で食べる高級品だったようだ。
根深い野菜をつくるのは、前回の清瀬の根菜栽培(ニンジンジャムやニンジン焼酎も名物)とも変わらない。

江戸から運ばれたものに、灰や干鰯(江戸湾や九十九里が産地か)があるが、肥料として用いられる。ちなみに、上のパネルにもある鳥の糞は、ウグイスの糞などが米糠を入れた糠袋に混ぜたりし、洗顔料として使われた。肌がツルツルになったらしい。

当時の東上線は山道も通っていたようだ。まだこの辺りが山が並んでいたころか。今は開発でつぶれた台地や山などもあったのかな。
朝霞駅もまだ「膝折駅」だった。
東武東上線は、もともと東京と上野(群馬)を結ぶ予定だったが、手前の寄居までしか開通できなかった。寄居から八高線で高崎と八王子が結ばれ、または秩父鉄道で熊谷までにも行ける。
本庄、深谷、熊谷、羽生…まあ、ほぼほぼ群馬だな。

膝折駅の倉庫にあるゴボウの積み荷。

膝折という地名は、東京ゴルフ倶楽部をつくるとき、ゴルフに「膝折」では縁起が悪いと、ゴルフ倶楽部名誉総裁の「朝香宮鳩彦王(父の久邇宮朝彦親王は昭和天皇の香淳皇后の祖父にあたる)」から名前をとり、「朝霞」に変更した。

やがて、江戸時代後期から、水車による小麦の製粉から、針金づくりがさかんになる。

明治時代から大きく針金をつくる「伸銅業」がさかんになるが、大きな転機が大正時代に動力が蒸気力から電力に変わったころ。電線の銅線づくりに大きく活躍する。

朝霞もまた、川口の鋳物(型に溶けた鉄を流し鉄器を作る、日用品のみならず戦争において大砲などもつくっていた)とともに日本の近代化を支えた歴史深い町であった。

志木へ。新河岸川の様子をもう少し描写する。

志木へ立ち寄り、川越街道から脇道に逸れ、奥州道の引又宿を見てみる。
引又は、清戸道(東京の千代田区九段から文京区江戸川橋、そして豊島区目白、落合や漫画家で有名なトキワ荘のある長崎から練馬区は石神井や大泉から清瀬市へ)と同じく庶民用の道路である奥州道の宿場で引又河岸は新河岸川の舟運の中継地でもある場所。奥州道は日野と小川新田(小平)、清戸(清瀬)、引又(志木)、与野、大宮、原市、岩槻へ抜ける。

新河岸川と柳瀬川の合流地点と荒川の間に、志木市郷土資料館。
今回は昼間に、志木市役所から、新河岸川と柳瀬川の合流が見れました(前回は夜半の撮影だったがリベンジしました!)。
引俣=引又。岩槻まで奥州道、岩槻からは春日部にて日光街道(宇都宮で奥州街道と分岐)と合流する。だから奥州道は今の東武アーバンパークライン(大宮~春日部~千葉の野田や柏方面)
…言いづらいな、要するに東武野田線に沿っているのかな。

志木市郷土資料館は、原始の犬の小さい土偶のような土製品(弥生時代の遺跡から)など、多くの展示があるが、今回はあくまで川や街道などに注目する。

朝霞で荒川と合流と書いてあるが、現在、朝霞においても新河岸川と荒川は離れたままに工事され、朝霞に接する板橋と北区赤羽の岩淵水門で、荒川と分流した隅田川に吸収される。

新河岸川の舟運は、川越の仙波から、志木の引又宿を経て、朝霞の下内間木まで。そこから荒川と昔は合流していたようです。

日本の川の特徴は、短く急であり、なおかつ季節や時期によって流量が変化する。新河岸川も九十九曲がりといい曲がりくねって流れが悪く、豪雨でよく氾濫や荒川からの逆流もあり、改修などが行われた。

街道の町ならではの、商家の帳簿。
朝霞の下内間木では、台地上に問屋、急坂を下り川岸の船着き場に小屋をつくり荷物を保管していた。
問屋さんは、荷物を帳簿につけて商売していたようだが、よく船が荷物いっぱいだと、船頭さんは船着き場をスルーして通り過ぎていたため、問屋さんが困ることがあったそうな。

「船待てや! うちの積み荷も乗せてけや!」

新河岸川沿いの引又は、先述の通り奥州道の通り道として、東北と甲州(山梨)を結ぶ道として古くから利用されていた。
さらに1638年の川越東照宮の火災により川越大師の喜多院(家康の側近の天海が27代住職として入寺したとき初代川越藩主の酒井忠利により喜多院と名付けられ改修、もともと東叡山は上野寛永寺でなく喜多院であったよだ)、徳川家光の命令により江戸城紅葉山御殿の一部を移築。多くの資材を送るときに新河岸川の開通がはじまった。
引又宿は定期市として発達したが、のちに常設の店舗も増えてきた。

ここは柳瀬川と新河岸川の合流地点でもある。舟運は柳瀬川も利用していたのだろうか。
同じ苗字が多いのは、家族が近くで暖簾分けして独立したからか。
茨城県日立市の郷土資料館で学んだが、同じ苗字が多いため、「若旦那」「ご隠居」「○○屋の~」などの屋号などで読んでいたらしい。

そして、野火止用水。以前の清瀬から浦和までの記事でも描いたが、玉川上水(羽村~四谷大木戸と内藤新宿という今の新宿御苑まで)の分水として、小川(小平)から新河岸川まで結んだ用水路。
玉川上水については以前の記事「必ず水を確保せよ」などでも述べた。
玉川上水も多くの分水路がつくられ、「人が住むことができない」と言われた武蔵野の台地を住宅地と農地に変化させていった。

今は多くが暗渠となった野火止用水。志村けんが唄った「東村山音頭」は多くはアレンジだが、実際の東村山音頭の5番に「言わず語りに 伊豆殿堀(野火止用水)よ ソレヤレソレ」とあり、多摩地区(村山や清瀬など)~新座と志木の人々の生活を支えたものなのであろう。(伊豆殿=松平信綱伊豆守)

さらに野火止用水を宗岡地区まで引くために、高架の水路まで作る。これが「いろは樋」である。前回の「清瀬から浦和まで」の記事内に、志木市街地で撮った模型がある。

川は恵だけでなく、洪水という被害ももたらす。東京の赤羽近くの北区王子にある飛鳥山博物館でも、埼玉東武の中川沿いでも多く設置されている「水塚(避難用の小高い土盛りにある小屋)」がここでも見られる。
この志木は、荒川、新河岸川、柳瀬川、野火止用水。多くの河川や用水が錯綜している。

昔の志木駅
今の志木駅。

台地上にいる農家と農産物や副業の様子

川越街道の、膝折の次の宿場は大和田。前々回の「清瀬から浦和まで②」で新座を通った時に通過した。新座の郷土資料館は閉館中のため、代わりにここから徒歩すぐの三芳町の郷土資料館を描写する。
これまで志木のような水辺の地域を語った。柳瀬川の北、三芳町は武蔵野台地の丘陵地帯である。どのような生活となったか。

三芳町立歴史民俗資料館。ここでは主に台地における農業の様子が展示されていた。
しかし館内は撮影不可のため一部だけを描写する。特に後半の展示の目玉である三富新田について。

元禄初期の川越藩主の柳沢吉保が、家臣の荻生徂徠の建議により、藩政充実と農作物増産のため武蔵野台地の開拓に着手した。それでできたのが三富新田だ。

道の両脇に農家がならび、農家一軒につき幅が40間(約72.7 m)、奥行き375間(約681.8 m)。これらが密に、短冊を張り巡らすごとく並ぶ。
農家が入り口にあり、奥に畑、背後に雑木林。雑木林は竹細工や薪や木材、樫の木はさらに実を非常食にもする。防風林や日の調整だけでなく、肥料を採る場所でもある。
落ち葉掃きは重要であり発酵しいもを育てる。
この「さつまいも」は今や川越の名産品であり、江戸にも出荷され「九里(くり=栗)四里(より)うまい十三里」と江戸市民を楽しませた。江戸のさつまいも・焼き芋文化を支えたのは明らかだろう。
十三里は江戸と川越の距離らしいが、伊能忠敬がのちに地図作りにおいて距離を測ると11里弱ぐらいだったようだ。

そして、川を利用した藍染め。藍は江戸時代の人々が一般的に使っていた色で、今でも「ジャパンブルー」という。アメリカのジーンズも同じ色「インディゴ」であり、これは防虫・殺菌効果だけでなく古くなるとより色合いが良くなるため、江戸の庶民に大人気だった。
江戸庶民が今の我々が着るジーンズと同じ色合いを楽しんでいたのだ。

埼玉は割とどこでも川沿いに藍染めを行う人々が多い。
パネルにある紺屋(こうや)は江戸にも多く、下の広重の浮世絵「神田紺屋町」なるものも。
落語の「紺屋高尾」も素敵な花魁と紺屋の話で良いものです。
もはや江戸では染物屋を紺屋といっていたので、柿渋による渋染めも紺屋だったのかな。

やはり山間部は機織りが多い。で、やはり織物を扱う拠点は、村山と所沢ですね。狭山丘陵周辺、狭山湖ダムに沈んだ勝楽寺村とかも所沢織物や村山大島紬をつくっていたような。狭山丘陵の西の東京都瑞穂町の「けやき館」でも展示されていた。おそらく幕末から八王子(瑞穂町の南)が横浜で輸出するため、織物の拠点となったのかな。
まあなんにせよ、土地はいろいろとつながるものだ。

紅はるかは甘くてしっとりで人気がありますね。
パープルスイートロードは甘さ控えめでほっくほく。
昔は一般的だったが今は希少な太白。白いおいもで、ねっとりとして甘さ控えめ、きんとんやふかしいも、てんぷらなどでも美味しい。秩父で今もつくられているとか。
紅あずまはもっとも一般的で関東に多く、甘くてホクホク(粉質)。
川越芋の代名詞、紅赤は「サツマイモの女王」と言われ、ほどよい甘みと栗のような風味、粉雪のようなホクホク、火が通りやすくてんぷらやきんとんに最適らしい。

三芳町から歩いて志木駅か柳瀬川を目指します。
丘陵地であり、今でも広大な畑が広がります。

ムクドリの大群が、まるでイワシが巨大な魚を擬態するように、右往左往して飛んでいました。
思わず見とれて動画も撮った…
いろんなムクドリが集まりながら、ひたすら空に揺らめいている、神秘的な光景。
数十分見続けていたら、ふとしたときに、神社の森に近づきながら、ふっと群れは消えました。
おそらく、眠るための止まり木を得たのでしょう。

川越街道の最後の大井

三芳町からやや北の川越方面に、大井宿があった。そのすぐ北に「ふじみ野市大井郷土資料館」が、大井図書館の一角にあり。小規模な資料館だ。

まず、ここにさんざん述べてきた埼玉の街道の地図があった。

川越街道の宿場をクローズアップ。

左側が北の川越。
鎌倉時代は大井氏、和田合戦のあと二階堂氏が支配し、そして戦国時代は北条氏に支配される。

三芳町はじめ、ここから西の所沢にかけて広がるのは三富新田。
田ではなく多くがサツマイモを中心とした畑で、根菜や花卉、そして狭山茶の栽培なども見られる。

大井宿のミニチュア。

上り荷は江戸から川越まで行く砂糖・酒・着物に瀬戸物・鉄類・魚など。
下り荷物は川越から江戸へ行く野菜・醤油・綿・炭・木材に石灰など。

外へ出て、大井宿の今の様子を見に行く。
旧川越街道は国道245号に沿い、ところどころ残る。

角の常夜灯。大山道の地蔵街道と川越街道が交差するところとして、目印や街頭の役目。陸の灯台みたいなものか。
とくにここ亀久保は、三富新田の上富村だったところ。
今も様々な地域の分岐点か。

大井宿のあとが見えてきました。

木戸は宿場の入り口で門番でもあり、門限もあったようだ。

埼玉県民なじみの店、山田うどん。
カレーにラーメン、もつを煮込んだパンチ定食など、リーゾナブルでうまい!

天ぷらそば。

ふじみ野駅に戻る途中、ハクモクレンに河津桜。

さて、次回は川越へ向かいます。
そして、川越から先の方まで描くかも。
できれば、「月がきれい」か「恋する小惑星」あたりのアニメの聖地巡礼ができたら。

今回のおまけ(あるアニメの聖地巡礼)

何のアニメの聖地巡礼でしょうか?

東武東上線は川越よりはるか先、秩父地方の寄居の手前、埼玉の小川町を目指します。

坂戸に東松山、森林公園の先です。
途中に「つきのわ」先には「男衾」「鉢形」など無骨な駅名もあり、鎌倉幕府の御家人・畠山重忠の領土(菅谷館)など武勇な感じが漂います。
小川和紙は2014年、世界無形文化遺産に登録された歴史深い和紙。武蔵国こと埼玉は高麗など渡来人が多く(高麗郡もあり)、紙漉きを生業とした人が多かった。
小川和紙はとても丈夫だったため、太平洋戦争における日本の秘密兵器に使われた。
その名も「風船爆弾」。
2001年9月11日のテロ以前、はじめてアメリカ本土を爆撃した世界史に残すべき事件である。
駅周辺は割りと賑わい、離れると長閑な風景が。
きれいなお山。
兜川というらしい。
んー、自然が豊か。
花が似合う場所だなあ。
のんのんびり。
ああ、武蔵嵐山にて、都幾川に合流する槻川だな。
川が好きなので染みるくらいきれい。
思わず、「来てよかった」と呟く。
ムフー。
きれい。
さあ、目的地の近く。
下里分校あと。あるアニメのモデルです。
ほたるん。
なっつん、こまちゃん。
にいに。
アニメとちがい、穴は空いてないし、雨漏り用のバケツもないです。
色はちがえど、まんまかも。
にゃんぱすー!
れんちょん。
アニメ「のんのんびより」の母校のモデルです。
最初は女の子ばかりに、独特なキャラに抵抗ありましたが、だんだん引き込まれ。
最終シリーズの三期では毎話泣いてたような。
三期1話の「ダックス」が。
交流ノートに描いていた絵。みんなうまい…思わず撮影。
帰路はなんだか、名残り惜しいような。
はあ、空クッソ青い。
川は本当にきれいだ。

今年は僕の休みが月曜のため、道の駅も博物館(月曜が定期閉館日)も開いてません。

小川町は、「ヤオコー」(スーパーマーケット)と「しまむら」(衣料店)の発祥の地。埼玉県民の生命線ではないか!
僕の生まれ故郷の長崎にもある「しまむら」よ。偉大なり。

こんな、秋田かどっかの漫画にも、しまむらが。
いかにしまむらが偉大なのか。「くまみこ」2巻も必見です。
寄居方面を眺めて。
駅前にヤオコー!
思わず買い物!地元野菜が食べたい!
きれいな水から、和紙に酒よ。

完。





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