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被災地をゆく②

南三陸町

毎年、お盆休みは東北の被災地を巡ろうとしています。
去年はコストやスケジュールの都合上、いわきの旅で終わりましたが、今年はまた2年ぶりに宮城入りを果たしました。
で、さんざん書いてきたけど、岩手の遠野を目指すも台風による豪雨に遭遇し、断念、埼玉へ帰還。(いわきの旅は以下、被災地訪問の記事です)

けど、今年は関東大震災(1923年9月1日)100年目。
やはり、2011年3月11日の東日本大震災以来、ささやかですが被災地を応援したい僕にとり、やはり今回も被災地を回った記事を書いていきます。
今年は福島第一原発からの処理水放水により、いろんな物議を呼んでいるようですし。特に、中国政府の抗議と日本の海産物輸入停止、そして中国人による膨大な抗議電話(都庁など役所だけでなく一般の飲食店まで)、中国の日本人学校への暴行。

まあ、ややもすれば誰もそんなに気にも留めないかもしれぬ風化しそうな震災のニュース、しかし地震大国である日本。あらためて被災地の様子を伝える必要があるかなと、やはり遠野で妖怪や民俗学を楽しむ話より、被災地レポのほうが意義があるかもしれませんね。

で、東北旅行1日目は普通列車で宇都宮線から栃木と福島を突っ切り、仙台にて上記「被災地をゆく」①にて描いたように荒浜小学校を訪問し、仙台で宿泊。
2日目、仙台を出発し、いつものように東北本線で小牛田で気仙沼線に乗り換え。柳津から廃線になって以降「BRT(鉄道路線あとをバスで輸送する)」に乗り換え。
いつものようにトイレ(が近くにないとパニックを起こしやすい)恐怖症の僕はBRTにはトイレがないので、たまに脂汗(便意が来るか来ないかそのものを恐れている)かきながら南三陸町の志津川へ行きました。


柳津にて、鉄道からバスに乗り換える。
地方鉄道はだいたいは1駅区間が長いし本数も多くないためトイレがついているものだが、こんな普通のバスにはトイレなんてない。
トイレを完璧に済ませ、お腹状態も整え、ストッパ(下痢止め)も飲み、対策カンペキにもかかわらず、「便意が来たらどうしよう」でパニックになるのです。
まあ、30分耐えられました。

すると、2年前に来たのと違っていて、バス停、もといBRT駅の位置が「さんさん商店街」とドッキングしていて。ずっと応援していたここが南三陸町の中心地になっているようで。

撮り忘れた2022年新設のBRT志津川駅(wikipediaより)
BRTバス停すぐに伝承館3.11メモリアルもできていました。当時の人々のインタビューが聞けたり、映像が見れたり。商店街の中には別に写真館があるお店もあります。

伝承館からすぐに商店街、ここでゴチソウやおみやげを買う前に、祈りを捧げに行きます。
中橋を渡るとすぐに、2012年以来ずっと見に行っているあの建物。

防災庁舎あと。津波の被害の映像で何度もテレビなどで見てきたものです。

南三陸町の津波の被害の甚大さは、YouTubeで何度も見て絶句したり泣きじゃくりました…
多くの人の尊い命が失われました。しかしそのシンボルとして語り継がれるべき、遠藤未希さん。
志津川高校を卒業し、この町役場に就職、危機管理課に配属され防災無線を担当した。
津波が襲撃するギリギリまで、住民に避難を訴え続ける。その冷静かつ切実に、何度も何度も鳴り響く無線放送に、多くの住民が避難を始める。
上司の三浦毅さんが津波が眼前に来ていることを察知し、未希さんに「もういいから避難しろ!」と言いに行き、やっと未希さんは屋上を目指し始めた。
しかし、津波は防災庁舎の屋上を丸吞みに。

ああ、あの悲劇が何もなかったかのように、時は過ぎていく。
さんさん商店街には多くの観光客の弾む声が鳴り響き、笑顔で語り合い、志津川の美味たる海産物に舌鼓を打っている。
しかし、ふとここに来ると、何とも言えぬ厳粛な気持ちとなり、多くの人があの時を思い、祈りを捧げている。

姿を消した三浦さんや遠藤さんたち。屋上に避難した40人のうち、生存したのは11人。遠藤さんは流されたあとに続いた凄まじい引潮により、志津川湾にて遺体として見つかった。遠藤さんは前年2010年に入籍、この年の9月に挙式をして幸せな家族をつくっていくはずだったのだ。

タイムスリップ。2012年のあの景色を再びここに記しておく。
僕は2011年の8月、震災発生から5か月後に歴史に残るこの事件を目に焼き付けるために宮城に向かった。しかし交通の混乱により、仙台と多賀城と松島や塩釜しか行けなかった。以降、石巻や女川、気仙沼などを巡ったが、やはり毎年ここに行きたくなる。
2012年、震災翌年にBRTにて駆けつけ、当時は志津川駅前にバス停があり降りた。その景色を見るや、すぐに膝から崩れたような思いがした。
長崎出身の僕は原爆投下後の景色を子供のころから心に刻み込まれたし、東京大空襲などの写真を見ても同じような惨状に何とも言えぬ感じがしたのだが、それと同じような景色が広がっているのだ。
ただひたすら、泣きながら見て回った記憶がある。

まだ、震災後にこの辺りが津波対策の盛り土で埋め立てられる前、当時の町並みが崩壊したままの2012年の防災庁舎あと。
バスにもう1人の男性が乗っていたが、彼も降りるとすぐに何かを呟き写真をただただ撮っていた。

聞こえるのは蝉のけたたましい声と、重機が工事をする音。
海辺の町だから当然かもしれないが、磯の生臭さを若干感じた。

ここにいる人の多くは、瓦礫を片付けるボランティア。
怠惰で無知な僕は、ただここに来て、ウォッチするしかなく。

崩壊直後の気仙沼線志津川駅。立ち入り禁止などなかったため、ホームに登る。

在りし日の気仙沼線志津川駅(wikipediaより)。
津波に飲み込まれ、1年間放置された駅です。
なじみの施設がこんな惨状になる恐怖を感じます。
志津川駅から防災庁舎をのぞむ。

2014年に撮影。まだ志津川駅から徒歩5~10分ぐらいの場所にあった「さんさん商店街」と当時のBRT駅。ここではじめて、志津川の海産物を楽しみました。僕は三陸のホヤが大好きだが、他にも水ダコがうまい。

2014年に来て、まだまだ更地という状態になったくらいで復興という段階ではないと知り愕然とした思いも。なんでこんなに時間がかかるのか、日本政府の迷走か怠慢か。いや、想像以上の破壊力、瓦礫の多さのせいかもしれない。

2015年に来ると、やがて津波避難用の盛り土が目立つようになり。

更地だった防災庁舎のまわりも、盛り土が目立つようになりました。

やがて、駅から気仙沼方面の高台の上に「さんさん商店街」も移動し。
かつての人々が住んでいた場所は、盛り土の下に埋められるようになりました。
はい、またタイムスリップ。2023年の8月です。

左手の山のふもとが、気仙沼線の志津川駅と線路の跡地。
今年行ったときは快晴でしたが、2021年に行ったときは雨で。
この駅の写真は2021年のやつ。

今や、駅は震災遺構として保存されているようです。

さんさん商店街。「キラキラ丼」(うに丼)など映える食べ物が有名になってますが、ここでのバイキング形式で海鮮丼をつくるのと、あとひたすらホヤを食べまくるのが楽しみで。あと、ワカメを実家と姪っ子の家に送ってます。ここではできるかぎり散財しようとします。

天気が悪いのは2021年の写真。ウカれて写真を撮り忘れた。
まだ「さんさん商店街」から離れたところにBRTバス停のプレハブ駅舎がある。

ありがたく、おいしいご飯を食べることができました♪

皆様の笑顔、その裏にある背景を思うと胸が打たれる思いです。
カツオ、水ダコ、ツブ貝、アイナメか何かの白身。
魚が好きですが、やはり最高の海鮮料理は刺身定食だと思います。
今見るだに涎が出る…

気仙沼

志津川駅からBRTで気仙沼を目指します。トイレのため乗り過ごし、30~40分待ちへ。ホヤや魚を食べたため、念のため行っておこうと。
何度も言うがBRTにはトイレが無く、乗ると次は目的地の陸前階上駅(気仙沼駅よりやや手前)まで1時間。

きれいで豊穣の海も、時に牙をむく自然の恐ろしさ。
バス車窓から、BRT駅を撮る。
1時間後、陸前階上駅へ。
このあと、数駅で気仙沼駅ですが、その後の乗り換えがまた恐怖。
大船渡線のBRT、気仙沼~盛まで再び1時間20分。
しかし、盛から釜石までは三陸鉄道の南リアス線、トイレがあるのだ!

陸前階上駅を降りる理由は、気仙沼市の震災遺構伝承館。
博物館・資料館めぐりの記事をよく書いている僕ですので、釜石に行くついでに気仙沼の博物館も探したのですが。
気仙沼のシャークミュージアムも、鮫!鮫!!シャーク!!!フカヒレもシャクシャクシャーク!と興味深いのですが、やはり被災地をめぐるテーマですし、昨日は仙台の荒浜小学校という震災遺構も見学したので、ここを訪れるしかないと決意!
もとは県立向洋高校といい、海洋、漁業、食品ビジネス、無線など機械を学べる学校だが、激しい被災の跡地となった。

見えてきました。水産の学校という風格が漂います。

近づくとすぐにショッキングな、津波による破壊のあとが。

さあ、入ります。伝承館として多くの職員が案内してくれ、さらに今日は大学のオーケストラの演奏もあり。
最初に案内されるのが、スクリーン。多くの観客もおり、家族連れのチビッ子たちがショッキングな津波の映像と生々しい現地の人の声を熱心に聞き入ってました。
ああ、こういうのを東北だけでなく、東京など多くの学校の授業で聞かせないといけないのに。NHKという公共放送こそ、今年の関東大震災100年目だからこそ、特集しないといけないこと。NHKなんて民放と変わらないくせ受信料だけry 
映像と、写真の部屋は撮影は不可。そして、メインの「当時のようすがそのまま保存されている」学校施設の中へ。

屋上へ。津波がせまり、地元の人が逃げてきて、取り残されたのは荒浜小学校と同じか。
屋上にて、職員の若い20代くらいの男性の方が、熱がこもった解説をしていて。
ひょっとして、家族や自身が被災したのかな? または県外からでも震災のときの経験や聞いた話からショックを受けて、この仕事に携わる決意をしたのかな? 並々ならぬ決意のような情熱を解説から妄想してしまう。
(多くの観客を感動させた解説の仕事、1時間くらいで1周し終わると、彼はオケのコンサートの開始に小走りに駆けつけ、それを聞き入ってしまったのも、仕事に対する熱意を感じてしまいました)

解説の彼いわく、この辺りに建物が流れてきて、念のために声をかけたら、老夫婦の返事があったようで、救助開始。3月はまだ寒いため、もしそのまま流されていれば、海の向こうに流されてしまうか凍死するかの瀬戸際だったようです。

きっと、社会や政府は忘れ去ってしまったかのように風化されようとも。
この東日本大震災は多くの人々の気持ちに深く刻まれ、さまざまな人々の行動のきっかけに、これからもなることでしょう。

ウォッチしかできない僕だけど、生きている限りウォッチしていこうと思います。ただ、noteという場で発信でき、それを読んでくれる人がいて。
本当に幸せを感じております。

気仙沼駅へ。
さあ、ここから、また長いトイレ(が無いことに対する恐怖)との戦いが始まります!

シャクシャク、シャーク!
ちなみに、実家にワカメとフカヒレを送りましたが、僕自身はフカヒレ童てィ、いや食べたことないです。
いつか、シャークミュージアムにも行ってみたい!

10時くらいに仙台を発ち、12時に志津川に着き、そしてなんやかんやでもう17時くらいになったか。
何気に、気仙沼から大船渡線BRTの出発までの待ち時間が長かったかな。
どうやら、陸前高田の「陸前高田市立博物館」「東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)」の見学は時間的に絶望的、三陸鉄道(さんてつ)から見るキレイな三陸海岸の景色も暗黒になりそうです。

「ああ!奇跡の一本松や!」と撮影しようとしたらタイミングに間に合いませんで。あと、陸前高田駅(バス停)で降りてトイレちょっと行っておきたいな、とモタモタしていたらタイミングを失って。それもまた恐怖感を加速させ。
便意があるような無いような(無いのですがいつくるか不安)、まったくの妄想ですが。
けど、盛まで行けば、三陸鉄道南リアス線! トイレはあるし、しかも釜石に泊まれば、明日は数年前から楽しみにしていた遠野へ行ける!
釜石線も鉄道だから、トイレがある! あと数十分、気張れ!俺!!

エアコンの冷風で腹が冷えるのも、山道でバスがめっちゃ揺れるのも不安。
真っ暗でトイレ感が見えないのも不安。
「おまえ、旅人なんて辞めろよ」と言われそうですが、一生付き合う恐怖症です。

大船渡市、盛駅に着いた頃には、もう19時近くだったと思います。
粗相はもちろん(これまでほとんどやったことはないが)便意も全くなかった僕は勝利の雄たけびを上げそうでした。もはや閉所恐怖症のレベルなのかな。バスは景色が大好きなのだけど、どうしても「閉じ込められている」感が怖くて…

さあ、南リアス線! トイレを見て安心し、釜石まで50分、靴を脱いでだらんとし、買ったお酒で祝杯を挙げます。もう釜石まで、あっという間!

釜石駅から、地元のスーパーで売れ残っている海鮮を買い、祝杯です!
ホテルには大浴場もあり、洗濯機もあり、従業員も親切で快適でした。

釜石

釜石のホテルにて宿泊。前日はスーパーで海鮮を買ったのだが、そのときにちょっとポツリポツリと雨だれが顔に当たった。
その時は「雨か? 傘買っておくか? いや、もっと降ったら買うか」程度だった。

翌日。起きて部屋のカーテンを開けると、けっこうな雨。
「う~ん、傘どうしよう? 近くにコンビニ無いかな? いざとなればタクシーで駅まで15~20分だから行けるかな?」と思っていた。
朝食にオニギリと味噌汁がついており、米おいしい、早めに出て遠野に行きたいのだが、もうちょっとで弱まるかな?と、またモタモタしていた。
漫画コーナーもあり、久しぶりに「稲中(行け!稲中卓球部)」という伝説のギャグマンガを読みふけってしまった。

10時のチェックアウト時間がせまっても、まるでシャワーのような雨。従業員の人に「近くにコンビニないですか?傘がほしいので…」と聞いてみたら、「忘れ物でボロイのですが、差し上げますよ」と御厚意が。嬉しい。

釜石駅に向かう途中、弱まったり強まったりの雨なので、そんなに気には留めなかった。

しかしながら、駅にて。何と、釜石線が不通に!
午前中いっぱい、運転見合わせ!?
不安になって聞いてみる。「12時以降は動きますか?」「いや、まだわかりません」「11時に花巻までの臨時バスが出るとありますが、遠野とかに寄れますか?」「寄れません」
「午後の見込みはありますか?」「わかりません」。

遠野行きを断念する方向性になってしまったようだ…
釜石にて寄る予定だった、釜石郷土資料館に向かう。
(この記事は震災をテーマにしているため、詳しい内容は載せません)

釜石の新日鉄の製鉄所は釜石の基盤産業
詳しくは、今、「工業地域」の記事(前回は千葉市の川崎製鉄ことJFE、次回は川崎の製鉄業)を描いているため、そこにて記していこうかな。
釜石港
製鉄業がさかんなため、軍用施設も多かったようで、釜石はアメリカ軍から艦砲射撃を受け火の海になった。
昔の民家。東北地方の民俗はとても興味深い。
ああ、遠野、遠野…!
稲作の副産物としての藁(ワラ)。
筵織機は多くの農家にあるが、東北ならではの雪備え用の藁沓(わらぐつ)などもある。
山間部は、東京の青梅や檜原村、埼玉の飯能や秩父と同じく、林業と炭焼きがさかん。
林業と炭焼きをテーマに記事を書いてもいいな。
「海辺とお山の、2つのくらし」とか。
宮本常一先生の本を読まなければ!
とまあ、いろんなことを言い訳にして、ダラダラと記事を書いております。
いえ~い、みなさん! 読んでくれてありがどう”…
漁業。
そして、釜石の新日鉄以前の鉄の精錬。
こういう基盤もあり、釜石は実は北九州の八幡製鉄所よりも早い、日本初の製鉄所なのです。
日本の近代製鉄発祥の地として、世界遺産「明治産業革命遺産」の1つです。

釜石ももちろん、被災地。遠野にすら行けずそれどころじゃなかったが、鵜住居(うのすまい)地区は甚大な被害があったようなのでまた訪問したい。
「釜石の奇跡」という言葉があり、釜石東小学校などの児童は防災教育(たとえば、想定にとらわれず、ひたすら避難する)によりほとんどが生存できた。
しかし同時に「釜石の悲劇」という言葉もあり、「こんな地震だったら津波は来ない」という経験や、普段の防災訓練で「水害用の避難所を地震の避難所と兼ねて使っていた」ことから、逆に経験が邪魔をして多くの死者が出た。

9月1日は防災の日であり、防災を学習したり避難訓練も行っていたようだが、最近は特に行っていないようだ。
「被災地をゆく」①でも描いたが、これまで人々が賑わっていた東京に、いつ何時、大地震が発生し町や人生が壊滅するかもしれない。

御花畑にくるまれて文明にも物質にも恵まれている日本人。
平和の背景には、常に「危機管理」を抱かないといけないと思う。

最後に、蛇足ながら、その失敗例をご覧ください!

先述の通り、釜石線、まさかの運転見合わせ!

遠野に行く手段を練ろうとしたが、少ない本数の中、どうやら午後も運転見合わせが続くようです!

臨時バスに乗る決意を固める。11時半に出発と聞くも、大幅遅れで12時に出発。
何度もトイレに行っておく。ひょっとして、2~3時間バスに閉じ込められる最悪のケースを考える。(たしか釜石線の釜石~花巻は2時間以上かかったような)

さて、バスに乗り込み、僕の懸案事項は①トイレがあるか、②途中でトイレ休憩があるか。
①→×、トイレ無しか! また昨日の恐怖が…?
②→×、というかアナウンス一切なし! 運転手さん、所要時間も何も言わず終始無言で運転する。

ブレていますが、雨が横殴りの「豪雨」です。
トイレトイレと汚い話が続いたので、釜石駅名物「釜石ラーメン」の画像をお楽しみください!

けど実は、意外とあっさり1時間半くらいで花巻駅に着きました。
いや、車内で必死に戦いましたよ! 必死に眠ろうとしたり(40分くらい寝てた)、新花巻駅で降りてトイレ使おうか悩んだり。

花巻と言えば、宮沢賢治の出身地。博物館や資料館がありそうだな。
けど、彼の作品あまり読んだことないしなあ。「雨にも負けず」など名作以外は、「春と修羅」とか聞いたことあるが…

…いや、そんな余裕ありませんがな! この豪雨、新幹線用にATMで資金確保しようと、ロータリー先にある農協行くまでビショ濡れになる!

さて、ここからまた懸案事項。
ここから、どこか行けるのか? ちなみに宿は、仙台と釜石の2つぐらいしか事前に予約出来てませんでした。お盆の繁忙期で満室多いのと、3日もホテルとか豪遊散財が過ぎるし。
時刻は13時半。岩手県の東北本線近くのいろんな博物館や資料館を検索中。次の電車は、北上行き(3駅となり)が14時、一ノ関行き(岩手の南端まで行く)のが14時半。
14時半のに乗って、岩手の博物館や資料館が巡れるか(どれもけっこう駅から遠いな)、雨雲どれくらいなんやろ…

ぐむむむ…

博物館や資料館は16時~17時ぐらいにお閉めなさります。微妙な時間だな。
往生際悪く、判断力も鈍く、慎重という名の優柔不断、モタモタモタモタやりがちな僕は、必死に雨雲レーダーとグーグルマップを総動員してみた。
残り時間と、雨雲具合と、懐具合(軍資金)、総合的に考えた結果、
すぐに京都に行き、何かあるとすぐに行軍するなど、いざという行動が早い織田信長などをふと思い出し、
神出鬼没、動けば雷電の如く発すれば風雨の如く逃げるときはすぐ逃げる高杉晋作などをふと思い出し、

さあ、行くんだ!ここに行くことに、決めた!!

東京に、帰りましょう!

これは、逃げじゃない。勇気ある撤退だ。と思いたい。
あ、笹かまもうまいですが、岩手地鶏もプリップリでめちゃうまぁ。
あと、僕シソ嫌いなんだけど、しそ巻きもうまかった。

関東に入れば、もはや何事もなかったような青空。

17時頃、上野駅着。
傘を持っているのは僕一人。しゃらくせぇ気持ちでふと気づく。
「あ、そういえば池袋で『かぐや様は告らせたい』の赤坂アカ展やてたな。」
で、直近の「原画展記事」につながります。あとは、千葉や神奈川をブラついて、去年から楽しみにしていたお盆休みを終えました。また地獄の後半期がはじまりそうです。

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