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くるくる、くるり。チーバ君の鼻to耳へ~その②
はい、虫です。無視しないでね。これも何かの機会なので、ぜひ僕といっしょにチーバ君の体に侵入し、その心に滾っている「千葉の歴史」を見ていきましょう。鼻から入るとチーバ君もビックリするでしょうが、突撃です!ブェックショ!!
前回はチーバ君の鼻先である、野田市の関宿城博物館にて、チーバ君の鼻の歴史についてみていったね。実は、チーバ君の鼻先は「くぁwせdrftgy」という事実がありました。たぶん、チーバ君の鼻息とクシャミでこの事実は吹き飛んだのでしょうか。詳しくは前回記事にて!
さて、今回は「チーバ君の洟垂れ(はなたれ)」というテーマで、野田から流山に松戸と市川まで南下します。
実は野田では醤油が垂れ、流山では味醂が垂れます。そしてそれを松戸の梨が受け止めて、浦安であるチーバ君のベロ(舌)が受け止めます。意味不明ですね。
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チーバ君の洟(はなみず)が垂れていくような旅をお届けしましょう!
野田から醤油がドッパドパ♪
流山から味醂がドクンドクン♪
松戸と市川と船橋から、梨汁ブシャァアアアアア!!
野田から醤油がハナタレる!
さあ、さっそく野田から見て回りましょう。
関宿は鉄道が通らない陸の孤島ですから、バスで東武伊勢崎線の東武動物公園駅まで戻りましょう。そこから春日部でアーバンパークラインこと東武野田線に乗り換えると、野田市駅。もうあっという間にキッコーマンの工場が見えますね。
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「もの知りしょうゆ館」ではキッコーマンの醤油づくりが見学でき、お土産に醤油1瓶もらえます。カフェでは醤油ソフトクリームも食べれます。イオンモールに遊園地もありますし、子供たちとレジャーを楽しめる場所でもありますね。
野田市郷土博物館。さっそく縄文時代の遺跡がお出迎え。
春日部の資料館でも学んだが、この辺りは海が入り込んでいたよう。
千葉は人によっては「海と川に囲まれた島」という説を唱える人もいますが、当時は千葉は海に沈んだ島だったのでしょう。
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さて、2階はキッコーマンの醤油に関する歴史展示。
千葉北部を流れる利根川の東と西の両端(チーバ君の鼻と耳)、銚子と野田は筑波山のふもとから下総台地に広がる周辺の大豆の生産(今も千葉は枝豆の生産全国2位・茨城の水戸は納豆の生産地)、行徳塩田のあった市川と浦安に近いこともあり海から供給される塩により、醤油生産の中心地となり、野田のキッコーマン、銚子のヤマサ醤油とヒゲタ醤油の大企業を生み出しました。これは江戸前と言われた食文化発達の背骨を支えた偉業です。
まずはその水運の展示です。河川や浅い海の舟運で活躍した高瀬舟ですね。
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1661年の寛文期、江戸時代の将軍4代家綱の時に、高梨兵左衛門が醤油を作り始めました。千葉は「二十世紀梨」が発見された日本なしの有数の産地。
高梨さんと関係はもちろんありませんが。
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江戸から東日本に広まった香り高く旨味が強い濃口醤油を作り始めます。
関西は薄い淡口醤油が中心で、香りや旨味をつけるために濃口を使うようです。素材を大事にする京料理の影響でしょうか。
江戸という町は大工や職人などのモノづくり系・ガテン系の人が多いので、濃い味が好みのようで、同じく東海地方は濃厚な味わいの「たまり醤油」が広まっているようです。東海地方の味噌文化も同様なのでしょうね。
織田信長が京都料理の薄味を嫌っていて、京料理の達人である坪内石斎がつくった料理を食べて激怒した話もあります。
そんな僕も飯能や日高周辺に住んでいるため「弓削田醤油」が好きですが、長崎の両親に送ったら怒られました。長崎や九州の醤油は砂糖が入っているかと思うくらい甘いので。
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いろんな展示がありますが、僕的ハイライトは、この江戸時代の野田の醤油工場の模型ですね。
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大豆を集めています。
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工場内の手前から入る。
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大豆を蒸す工程をアップで。
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蒸した大豆に炒った小麦を混ぜて麹(こうじ)菌を繁殖させ「しょうゆ麹」をつくる工程・「製麹(せいきく)」をアップで。
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「しょうゆ麹」に塩水を入れて「もろみ」にして発酵させる「仕込み」ですね。
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できたてほやほやの生揚げ醤油に、味や色や香を整え殺菌・発酵の失活を行う「火入れ」です。今は工場で機械が行いますが、これが最初の作り方ですね。見事な分業体制、まさに江戸時代に発達した工場制手工業(これは醸造業だけでなく浮世絵工場や機織り工場などでも行われています)ですね。
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多くの「醤油づくりの道具」も展示してます。
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麹を蓄える「麴蓋」。何層も積み重ねているようです。
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麹蓋にへばりついている麹をきれいに落とす板とブラシ(ささら)。
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桶の液体をすくう柄杓と、かき混ぜる櫂(かい)。
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もろみを袋に入れてしぼり出し醤油をとる。
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火入れした後、醤油を樽に入れる漏斗。
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出荷しましょう!
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ラベリング~。
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醤油によって繁栄した野田。大正期に発行された東葛飾郡案内記には野田を「灘(神戸市)は清酒をもって関西に覇を称し、野田は醤油をもって東国に冠絶す」と醤油工場を中心に多くの商家が軒を連ね反映している野田の町を表現している。
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野田と流山の醤油醸造業が合同誌、野田醤油株式会社「キッコーマン株式会社」が成立しました。「亀は万年」から亀の甲羅の六角形「亀甲印」の中に「萬(万)」を入れた屋号のキッコーマンは日本では30%シェア、世界では50%の「醤油企業の代名詞」となった。
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明治年間に走った千葉県営鉄道(東武野田線)の貨車にある醤油樽。
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やがて一升瓶からペットボトルまで、容器は移り変わる。
みなさんのお好みの醤油はありますか? キッコーマンも良いですが、僕の地元の弓削田醤油など埼玉の川越系の醤油など、おいしい醤油は飯にかけただけで美味いものですね。
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さて、昔からの醤油づくりの発展には、河川の舟運が欠かせないものでした。河川周辺は農業も発達します。河川に恵まれた千葉は、農業生産額、北海道と鹿児島と茨城に並ぶ日本5位以内の農業県です。
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台地や丘、そしてその合間や谷間である「谷津」に流れる川。
米はこの谷津中心に作られているようです。この辺りは松戸の資料館が詳しかったかな。
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台地上など乾燥したところには麦なども作っていたのかな。小麦も醤油づくりに欠かせませんね。
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さて、野田は偉大なキッコーマンを生み出しただけでなく、日本の太平洋戦争の終戦工作を成し遂げた偉大な宰相「鈴木貫太郎」を生み出しました。
鈴木貫太郎については、以前の関宿の記事をご覧ください。
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魚雷の名手だった軍人・鈴木。
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鈴木貫太郎閣下。妻のタカは昭和天皇の教育係でした。
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さて、醤油も良いのですが地元グルメも紹介しましょう。
祭礼の時に食べるものですが… 「スミツカレ」といって、すりおろした大根や人参、節分の時の大豆に酢や砂糖を加えます。栃木や茨城に福島にもあり、鮭の頭や酒粕なども混ぜて煮たりすることもあるようです。
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流山から味醂がハナタレる!
アーバンパークラインこと東武野田線は「流山おおたかの森」駅にて「つくばエクスプレス」に乗り換え「南流山」駅(武蔵野線も通る)にて、地元のローカル線である「流山線」に乗り換えましょう。目指すは流山の中心地、流山市立博物館の周辺です。
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ただし、流山線の最寄り「鰭ヶ崎(ひれがさき)」駅まではやや歩きます。20分ぐらいかな。筆者は行きは気合と根性で流山博物館に向かい、帰りに流山線を楽しみました。
流山市立博物館は、明治時代の廃藩置県後に繰り広げれた「関東都道府県混乱期」における葛飾県と印旛県の県庁があった場所です。
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流山で敗れ新政府軍に捕まり斬首された近藤勇の顔パネルなど、新撰組がお待ちかねです。
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大丈夫です。近藤勇の幟はあれど、この顔パネルはただのキャラです!
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しかし1868年4月3日、流山の戦いで新政府軍に敗れ捕らえられたとも、越谷に出頭したともいわれ、近藤はのち板橋にて斬首される。JR板橋駅すぐ近くに墓がある。
顔パネルを紹介しておきながら、「斬首された」て、ちょっと気持ち悪いですね。
狂気や呪いを感じた人は、ぜひお参りに―
博物館入るとすぐに新撰組の資料やパネル。
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甲斐勝沼の戦いの後、沖田は江戸で死に、原田は彰義隊に加わり上野戦争で戦死したり(諸説あり)。再び、新撰組は流山で再結集しようとするも、組長の近藤が流山で敗れる。残った新撰組副長の土方歳三らは旧幕府軍とともに会津など東北へ向かい、函館五稜郭で戦死する。
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近藤勇の陣屋あとの周辺は、キッコーマンの万上みりんの工場が並ぶ「万上通り」で、路上に写真が掲示されている「まちなかミュージアム」に、日本茶カフェの上の階には万華鏡ミュージアムもあります。
僕は近藤陣屋近くの秋元酒店でみりんを買いました。夕暮れで近藤陣屋には入れませんでしたが。
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で、話が変わり、流山の縄文時代へ。
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古代から加村こと現在の「加(か)」は葛飾県の県庁があるなど、流山の中心地だったようだ。「か」「カ」「加」! 面白い地名ですね。
この「加」という文字はひらがなにカタカナにも転じました。
前回の関宿の記事に、流山の加村河岸と柏の布施河岸を結ぶ諏訪道が、利根運河ができるまえのショートカット陸路として繁栄したことを書きました。
この加の近くに流山市役所もあります。なので、ここに市立博物館もできたのでしょう。
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市川市の国府台に、千葉の昔の「下総国」の国府(今の県庁)が置かれました。国分寺も市川ですね。
ちなみに東京埼玉と神奈川の一部にあった武蔵国の国府は府中市に国分寺は国分寺市に。
神奈川の相模国の国府は海老名市か小田原市か不明のようですが、国分寺は海老名市ですね。以前「国府・国分寺祭り!」の記事を作ろうと取材済みですが、いまだ書けてません。
葛飾という土地も東京の葛飾区や葛西という地名もありますしどれくらいの規模なのかわかりにくいですが、葛飾県の中心が流山だったようで。
以下、都と下総国と流山のつながりを示した史料です。
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古代の都をつなげる「あるある」の、国府や都の役人がつけるベルトです。
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特定の町や集落・寺社周辺にて使われた墨書土器。これも記録無き時代の様子を紐解く貴重な考古資料なのだが、今でいうと店などの「屋号入り」「広告入り」の道具みたいなものかな。制服とか、ある結社や社中など統一された印のついた道具を使っているというか。
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板碑。中世にのみ利用された墓というか卒塔婆。これも記録少なき時代を紐解く考古学資料として注目されている。
う~ん、わが地元の近所の「秩父青石」がこんなところでも利用されていますな。
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そして、千葉は江戸時代では馬を育てる牧場が多く設置されていました。
船橋や鎌ヶ谷など千葉の多くの資料館で、馬の牧場あとの展示が見られます。これまで見てきた埼玉の博物館との違いですね。
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さて、野田に引き続き舟運です。
下の図、チーバ君の鼻先が見えますか。
この関宿から野田にて醤油がハナタレ、流山から味醂がハナタレ、小名木川から浅草の江戸繁華街に運ばれます。(または荒川や隅田川・新河岸川を通り我らが埼玉にも運ばれるのだろう)
ちなみに、僕ことチーバ君の体にINした虫も、この千葉の旅は利根川のチーバ君の鼻筋から頭を通り、佐原を経てチーバ君の耳である銚子にいたります。いちおう「チーバ君の鼻to耳」という特集の一環です。
やたら遠回りのようですが… ついでにこれまで過去に見て回った千葉の郷土資料館の記事も紹介していこうという魂胆です。次回は松戸や市川も紹介しようと思いますがキリがないかな。
今回の記事はチーバ君の鼻から醤油と味醂を垂らしていく設定です。
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さあ、味醂が作られますよ!
味醂(みりん)は、もとは「甘い高級酒」として、特に室町時代から戦国時代に広まったようで、秀吉も甥の秀次から献上され飲んだという記録がある。その起源は不明なところが多いが、江戸時代に流山で「白みりん」が初めて作られた。
今では調味料であるが元はお酒で、みりんは江戸時代には甘口の美酒として下戸や甘党の庶民にも親しまれる。
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キッコーマンの万上みりん、今でも飲用に特化したみりんを売ってます。
筆者の僕も楽しみました。甘く米が香ばしいですね。
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蒸したもち米に米麹を入れ、焼酎で発酵させていき、度数14%程度です。
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みりんの作り方。
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先日、鎌ヶ谷を散策したとき千葉の某スーパーにて買い、今も使っている万上みりんです。
煮物や鍋物で、コクや甘味が追加され、とても味が深くなります。
魚料理の生臭さも消えますし、いざとなれば飲める!?(いわゆる「みりん風調味料」じゃなく、本みりんならいけるかも!? けど調味料用に特化して作られたのだろうなあ 糖質も高そう)
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みりんの勉強用に購入したもの。
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流山の農業。原料の米は、千葉だけじゃなく埼玉の方には江戸川と中川も流れる洪水地帯ですから、ここの水田での米も豊作だったことでしょう。
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さて、またまたグルメです。
この地域の農業祭礼である「オビシャ」のときに食べるゴチソウ。
煮物があると、みりんのコクと甘味を感じてしまいますね。
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最後に、利根運河の展示も豊富でしたので、関宿に並び載せておきます。
銚子から運ばれた東回り航路の全国の荷物も、利根川に入り河川で江戸を目指すも、わざわざ千葉と埼玉の北端にある関宿を経由するのは遠すぎますから、陸上のショートカットをする「諏訪道」を利用したことは先述しました。しかし、やはり船で一直線に運んだ方が良いと、やっと明治時代に利根運河ができたのです。
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しかし、完成の7年後に総武線がつくられ、銚子からの荷物は鉄道で運ばれ衰退しました。今はただの用水・貯水路のようです。
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さて、長々とチーバ君の鼻to耳、いつになったら耳(銚子)に行くのかという苦情があればまだ良いのですが、諦め以上に無視される記事になりそうです。
がんばって、虫としてチーバ君を駆け巡ります!
マニアックで長い記事ですが、無視されない虫として、もっとスカッと、ガツンと、面白くなるようにがんばります。
ぜひ前回の館山や久留里などや、これから描く佐原や銚子もふくめて、「千葉」がもっと広まってくれれば幸いです。
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