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関東モノレールの旅③ ~東京モノレール後編

出会いと別れ、旅立ちの場所「羽田」。
東京の空の窓口であり、日本の玄関口でもあるこの国際空港は、多くの人々にとって新しき天地へ向かう場所でもあれば、仲間や家族との再会を望む場所でもある。

しかし、昔の羽田は物流拠点の品川の南にあり、多摩川の河口にあり相模と武蔵の国境にて多摩川が運搬した土砂が堆積してできた湿地帯で、やがて漁業が盛んな場所となり(羽田猟師漁師町)、江戸時代に鈴木彌五右衛門が新田開発を行い(鈴木新田)、穴守稲荷ができると参拝客で賑わうほか、鉱泉の発見で温泉旅館や花街として観光地となり、京浜急行がかつての穴守線を開通させてからは海水浴場や運動場、オートレースに競馬場も整備された東京きってのレジャースポットとなった。

こんにちわ。関東モノレール記事の第3弾・「東京モノレール」はついに後編です。

今回は、羽田空港の様子と歴史について描きます。
ややもすればただ無心に乗るだけの浜松町~羽田空港のモノレール。ふと、その周辺に思いを馳せていただきたく、ご紹介いたします。

左は昭和35年ごろの羽田空港。
#大森海苔のふるさと館
浜松町と羽田空港をひたすら往復し、多くの人を輸送している東京モノレール。

羽田へ向かいましょう

羽田へ向かう行き方は2つあり。1つは東京モノレール、もう1つは京急線で京急蒲田駅から分岐して穴守稲荷を経て羽田へ向かうルート。ともに天空橋にて一度合流しますが、第三ターミナルで南北にまた分岐して第一第二ターミナルに向かいます。京急は京成線など千葉方面と神奈川を結びますが、東京モノレールは浜松町から羽田空港しか結んでいないという違いです。

もちろん、モノレール記事ですから東京モノレールで向かいます。蒲田の街中から恥ずかしがり屋の根暗のように暗い地下に入り浸る京急も良いですが、海辺の上を陽キャのようにキラキラ日光を浴びながら東京湾沿いやその上を堂々闊歩していく東京モノレールも良きものです。「浜松町」駅から所要時間20~30分ぐらいですね。
これまでも前編と中編にて描いてきたように、浜松町を出て、かつては水産業で昨今も物流が盛んな東京港を見ながらの東京モノレールは、あっという間にその3分の2、羽田に入る以前の部分を通り過ぎ、のちに1939年以降に作られた埋め立て地である「昭和島」駅(なんと島民人口0人だそうです)を抜けて、「整備場」駅に入ると「羽田空港」の敷地に入ったようです。

昭和島を抜けて、鈴木新田の跡地があるという新整備場に向かっていきます。

かつて羽田は扇ケ浦やら要島やら言われていたが、もとはただの干潟であり葦が茂り、江戸湾の向こうには房総半島の山々が、北には品川を経て江戸が、西には富士山が見える風光明媚な場所であり、漁村として発達したのどかな場所であった。
多摩川河口の海辺の地域を「ハネ」と呼んだり、形が海から鳥が羽を広げたように見えたり、赤土の粘土地を「ハニ」と呼んだり、開墾した新開地を「ハリタ」と呼んだり。語源は様々あるようだ。
漁村については江戸幕府の御菜八ヶ浦として羽田浦にて漁業をさかんにしていたことは中編にて描いたが、中世のころに六郷用水がひかれたことにより、農業も発達していた。
江戸時代は18世紀の末ごろ、天明のころに羽田猟師漁師町の名主である鈴木彌五右衛門がここの干潟を埋め立てて新しい新田を開発していった。
鈴木は羽田浦の干潟に目をつけて堤防をつくり、大森の出百姓らの移住を進めたが海からの高潮や多摩川の洪水が起きるため土を埋めて根を張らせて堤防を強くするために防潮林として数千本の松を植え、まさしく沖からはとても美しい景観に見えた。

「整備場」駅から歩き「鈴木新田」に向かいますが、空港の敷地内のため面影は一切見られませんでした。

そして鈴木は地主神として稲荷大神を移し、五穀豊穣と海上安全を祈った。やがて文政と天保のころ、襲来した暴風雨や津波で海水が侵入したとき、彌五右衛門を中心に五十余名の農民らが鋤や鍬を手に取り死力を尽くして海水の侵入を防ごうとしそれを達成した。以後、ほとんど水害に遭うことはなくなり、これは稲荷大神の神徳として「波が穿った穴からの水害から田畑を守った稲荷大神」として「穴守稲荷」と名付けられた。

穴守稲荷を目指す前に、羽田空港を見ていきましょう。

羽田空港に入りましょう

まず、第1ターミナルの展望デッキから。飛行機のお迎えとお見送りをしてみましょう。やはり空港ですから、飛行機をたくさん見ないと気分も出ませんね。ツバメの巣にツバメがいないと物悲しいでしょうし。

位置的に見える景色は、品川方面でしょうか。

第1ターミナルから、第2ターミナルを目指します。
ここの展望デッキでも、飛行機の発着の様子と背景の周辺景色を見てみましょう。

徒歩で第2ターミナルへ向かいます。
乗る人々に、見る人々。
東京湾を一望できます!たぶん!
(遠くはガスっているとあまり見えないでしょうが)
スカイツリーとゲートブリッジが見えます。ゲートブリッジの右側に、ディズニーランド、そして千葉。

バス(無料)で、第3ターミナルへ。
国際線のため、「日本へようこそ!」というおもてなしの心が見えます。
(いや、日本らしさを見せつけながら、お金を使わせる経済的なねらいでしょうか)

展望デッキへ。ここは多摩川に面しているため、隣の川崎市の工業地帯が見えます。(川崎の工業地帯については、拙記事「工業地帯を見てみよう!」に詳しいです)

そろそろ羽田空港から出ていきましょう。しかしその前に、羽田空港の歴史をば。
1916(大正5)年、麻布の鉄工所にて発動機の研究開発をしていた友野直二と、千葉の稲毛海岸で飛行訓練に明け暮れていた玉井清太郎が「日本飛行機製作所」を立ち上げる。のちに飛行雑誌で記事を書いていた相羽有も合流し、飛行家の養成学校を創ることとなった。
飛行場を多摩川河口の川崎側にし、学校を対岸の羽田に置くこととなった。
これが「日本飛行学校」で1916年に初めて羽田で飛行機が飛んだ。

戦後の羽田空港と、現在の様子。
東京飛行場の位置と、今の羽田空港との比較。

のち、関東大震災後に帝国飛行協会の副会長である長岡外史二宮忠八をつぶした男が飛行機による物資輸送の必要性を強調。

長岡外史といえば、このプロペラのようなヒゲ。

当時、所沢や立川にあった飛行場だと首都圏から遠すぎると羽田が注目され、1930年に空港建設が始まり、31年に東京(羽田)飛行場が開通された。

江戸の入り口である日本橋が、世界とつながる羽田空港第3ターミナルにも。

羽田町の歴史を見てみましょう

第3ターミナルを出て、多摩川方面を散策します。穏やかな多摩川の流れ、東京都大田区側は空港でワチャワチャし、向こうの神奈川県川崎市側は京浜工業地帯(川崎は製鉄業や石油化学工業がさかん)でまたワチャワチャしているでしょう。
海風が吹きすさぶ夕暮れ、ただただ穏やかに奥多摩湖や青梅あたりから長い行程を経て、羽村や日野から調布や府中など東京の西武多摩地域を通過して世田谷と川崎を分けてきたのに、そんな素振りは一切見せずにただゆっくり流れて海に注ぐ多摩川。
背後には空中を駆け抜けるモノレール、そして空には多くの飛行機が頭上わずか上を飛んでいく。まわりにはランニングや釣り、散歩や移動をしている人々。
ボケっとしながら、いろんな「行き交い」が見れる、僕のお気に入りのスポットです。

「変な岩?」と思ったら、「釣り人」でした。

穴守稲荷。現在は場所が移されており立派な社殿が建っているが、ここ多摩川下流域にも旧・社殿の跡として鳥居が建っており昔の羽田の写真や説明書きが展示されている。

そして、最寄り駅はモノレール(と京急線)の「天空橋」駅。
ここはライブスタジオのZeppHanedaや多くの料理屋に足湯で空港の夜景が見れるスポットなど多くの商業施設が入っているエリアでもあるが、駅前には昔の羽田の様子が描かれている。

この地域はジャガイモやトウモロコシなど畑が多く、冬になると畑は海苔干し場と化していた。海産物としては、ここの店ではよくワタリガニやボサエビにアナゴなど地元のものが提供されていた。 


観光地としても、鈴木新田の守り神である穴守稲荷ができたのち、特に1894年に井戸が掘られた際に海水より濃い塩水が湧出。調査によるとナトリウム冷鉱泉(塩化物泉)であり湿疹・貧血・胃腸カタルなどの諸病に効くとわかり、温泉旅館が建ち並ぶ。

大隈重信も開場式に出席。多くの文人たちも羽田にて遊んだことだろう。
1909(明治42)年に羽田運動場と羽田海水浴場が開設。

のちに京急線が羽田の行楽地と参拝地を目当てに「穴守線」を開通させ、レジャー設備が整うようになる。

穴守線が出来たのち、海水浴や潮干狩り、スポーツやレクリエーションがさらに活発になったほか、羽田競馬場など様々な設備が作られていった。
京急線も、海の家を直営でやったり、様々な投資を行ったことだろう。

天空橋駅前の道に描かれた、昔の羽田村。旧3町で成り立っており、まずは全体像。

南部の多摩川沿いにある羽田鈴木町のようす。住宅地など栄えていた町か。

南西部の羽田穴守町。かつての穴守稲荷神社がそびえ、そして羽田海水浴場や海の家、その北の浄化海水プールや羽田運動場など広い敷地を持つレジャー地が集まるところか。

明治末期には1万5000人の人口だったようだ。

羽田町、滅ぶ

太平洋戦争中では、軍需都市の蒲田とともに空爆に遭い機能を失ってしまった。
さらにGHQの占領下、羽田空港の接収命令が出て、自動小銃を用いた米軍兵士たちに飛行場関係者は追いやられてしまう。
そして、羽田は町全体が接収されることとなり、住民は12時間以内の立ち退きを命じられる。
路頭に迷う人々がほとんどで、何とか区役所や警察による交渉により48時間以内の退去を強制させられた。
当時は情報がろくに手に入らない状態で、警察らにより告げられても現地の人々は寝耳に水、場所を移る宛もなかった。
住民3000人1200世帯はとりあえず家財道具を引きながら、1945年9月21年に故郷の街を去ることを強制させられ、アメリカが占領することとなり、穴守稲荷神社も穴守線も敷地内から追放された(穴守線は敗戦となる)。

着の身着のまま、とりあえず荷物ぶちこみ宛もなく漂おうとする羽田民。

そのような過酷な歴史を乗り越え、1952年に羽田は日本に返還される。
日本の空港として整備がなされ、当時は空の玄関口としての期待が大きく、日本初のレンタカーや空港リムジンバスなどもつくられ、大田区民は「銀座より近いハレの日の場所」として、一流品や銘品の買い物やお祝い事を羽田のレストランで祝い、地元住民のために開放された屋上ではビアホールや盆踊りなども行われた。
1964年の東京オリンピックには空港設備の拡張工事が大いに進み、ついに東京モノレールが国鉄初乗り20円の時代に250円の高額でスタートされ、客足が伸びず解体の危機もあったが乗り越えて、今でもややお高いながらも(浜松町から羽田空港ターミナルまで520円)空港への重要なアクセス手段として利用されている。

いかがでしたでしょうか。羽田空港。
正直、ただ土砂やコンクリ流して作っただけの、歴史も何もない殺風景な場所と思いきや、長い歴史に紆余曲折・栄枯盛衰、その背景にいろんな人々の悲喜こもごもが見えてきそうでした。

次は千葉都市モノレールですね。
これで終わりと思いきや、ディズニーリゾートラインの存在が怖くて(ディズニーは行ったことがない異世界)。モノレール・シリーズもだいぶ、いろんなテーマで描けて良かったです。

けど、モノレールよりも前に。
そう、「お山の暮らし、海辺の暮らし、平地の暮らし」というもの描きたいな。神奈川と山梨と埼玉の博物館でつかんだものが活かせるかな。
あと、長崎も描けそう。西と北と、東と南。
はぅう、国府国分寺… 栃木とか千葉(国が3つもある)に行く時間がかかりそう。
最近、描くのがしんどくなって、前回のモノレールから1か月くらい経ってしまったけど。何とか皆様が読むに耐えられる、ちょっとでも「いいなモノレール」と思ってくれるようにしたいのですが、なにぶん文才も軽快なしゃべりも豊富な知識力も無いもので。偉大な旅行系ユーチューバーとか、すごいよ。どうすれば、あんなに楽しいの描けるんやろか。
まあ、けど何とかお届けします。とりあえず、作らないと話にならないわな。
ぜひぜひ、高評価とチャンネル登録、そんなもんないか…




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