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SIGMA fpを買って2年経ったのでレビュー「fpと開かれた世界と私」

光陰矢の如し、SIGMA fp を手にして早2年。
購入するまでの経緯を書いたブログ記事がプチバズりしたのが、fpとの最初の思い出だったりする。
そしてSIGMAの山木社長にTwitterでRTしていただけたり・・・

本家SIGMAさんで動画作っていただいたり・・・
そんなこんなでfpとの出会いはそれはそれは素晴らしいものであり、そして実際に使ってみたところブログ記事に書いたSIGMAの思想が色濃くしっとりさり気なく体現されたデザインは僕を飽きさせることなく写真を撮るという行為に集中させてくれる。
fpの哲学はまさにこのデザインであり、不要不急の機能のごった煮と化した国産カメラでは稀有な存在である・・・ということが僕を惹きつけたわけであるが、これは2年使っても印象は変わらない。

fpのコンパクトで四角いシンプルなデザイン、必要最低限だが空腹感は与えない健康的な機能群、そして多様な拡張性。
そこから発せられるアフォーダンスは、つまるところ撮影行為への献身的な沈黙であり、撮影者はより自己の内省的な欲動の根源へ誘われる。
まさに禅の境地である。
そして写真という表現の世界へまんまと誘われた僕は、そこからfpの魔力の真の恐ろしさを知ることになる。 


fpの魔力①写真の追求と拡張性のもたらす真の意味

fpは終わりのカメラだと思っていた・・・そんな時代もありました。
fpの拡張性の高さと自由なカスタマイズ性は、謂わばカメラ版iPhoneである。
ジョブズが日本の禅から学んだように、iPhoneとfpは機能主義に陥らない自己との対峙の場としてのデザインであるからだ。
ゴリゴリ機能主義の国産カメラは、プロフェッショナルや明確な撮影目的がある人々にとっては素晴らしい道具である。
しかし、そこの場は閉じている。機能重視のデザインはまさに仕事の道具であり、便利な機能により自己との対峙は断絶されている。
故に「撮りたいイメージ」から逆算された使い方という閉じた世界で写真と向き合うことになる。
機能主義的なコスパ追求により豊かさを手にした我々は、逆に機能により閉ざされたアルゴリズムで操作されているのである。

iPhoneやfpは最低限の機能と強い個性を削ぎ落としたデザインにより、拡張性という規制のない自由を消費者に丸投げしている。
iPhoneはアプリを、fpはレゴ・ブロックのように拡張できる、オープンソースの海に委ねられている。要するに開かれた世界なのである。
開かれた世界は説明書などないし、自由であるが故に不安を生む。
だがその不安こそ、イノベーションの入り込む余地であり、その不安に耽溺するを良しとする人間はfpのデザイン設計の意味を理解できる。
fpの投げっぱなしジャーマンスープレックスにより天地がひっくり返った先にあるものこそ、自分の撮りたい表現なのである。

規制のない自由はコスパが悪く、Google Mapでも経路は検索できない。
その自由からくるストレスこそ、自己との対峙の時間であり、承認欲求や流行に惑わされることのない本当の自分が剥き出しにされるのである。
よって僕は、fp購入から怒涛の散財を繰り広げるのである。

まずは同じSIGMAのFoveonセンサー搭載傍若無人カメラ、SIGMA dp2 merrillである。
fp購入から半年経たずして、見逃し三振かホームランという孤高の天才を手にしていた。
fpのフリーダムな世界観は、写真を撮るという行為に思索を催し、それは人間の業と呼ぶべき「真理の追求」という原罪へと辿り着く。
面白いことに、fpのおかげで流行や映える写真やバズる写真に流されない強靭な個の自覚感が惹起されることで、写真の魔力に簡単に絡め取られる個の喪失を生んだのだ。ああ皮肉である。
新製品に飛びつくのではなく、未だ見ぬ荒野への憧憬、誰もが避ける危険地帯にこそ真理があるのではないかという強迫観念、そうfpは自己との内省の中で病的な執着心を生み出すのである。
Foveonってどんなだろう?・・・と。

簡潔にまとめると、
①fpより与えられた自由=自由過ぎるためにアイデンティティ喪失
②リセットされた自己世界観に、新たな足場を与えてくれる真理という名の虚像
③怪しいアイデンティティの再構築

ここにあるのは、アイデンティティクライシスにより生きる道標を失った人間のもののあわれである。
一般的なカメラ趣味は、「権威や流行や広告から与えられるもの=閉じた世界」であるからして、道標は標識により完璧にコントロールされている。
座標はしっかり確定しており、その中で技術の競い合いや絶景スポットへの憧憬、SNSでの大衆的評価といった具合に、何かしらの標識が立てられている。
だが、fpは開かれた世界への扉であり、そこには真っ暗な何もない荒野が広がる。
なぜなら、閉じた世界から抜け出た瞬間に自分は何も持っていないことを知るからである。

ここに書き連ねた妄言こそ、その真価である。
座標(アイデンティティ)と標識を失った僕は、写真の何たるかが何もわかっていないことに気づいた。
そこからは写真の歴史と哲学の研究というさらなる荒野が広がっていた。
写真関連本や写真集を買い漁り、荒野の中で自らの座標を必死に確認しようとするのだ。
最新カメラを使えば自動で何でも撮れてしまう時代に、僕はウジェーヌ・アジェの写真の何がすごいのかを学んでいた。結局よくわからんが。

写真集って高いよね。
スティーブン・ショアやアレック・ソス、そしてリー・フリードランダーの古書を結構な値段で求めたりもした。
スーザン・ソンタグやロラン・バルトはさっぱり意味わからないし、中平卓馬は何回読んでも難解で難解なだけだ。写真史も読んだし、2Bチャンネルの更新を楽しみにしている。
こうしてみると、如何に我々は閉じた世界の中で泳がされているかということがわかる。
もちろんそれを否定するのではない。先人たちの知恵や思考や技術の末にたどり着いた現在地がパッケージ化されて土台となっており、便利でコスパ最高な現代はたとえそれに気づかなくても楽しめるようになっている。

この頼まれもしない真理の追求は、自由すぎる荒野に標識を立て、自己のいる座標を勝手に記入する作業である。
荒野に屹立する違法建築としてのアイデンティティ、これこそ写真のみならず正解のない表現の世界の真の姿である。

SIGMAのFoveonカメラはそんな荒野に是非とも欲しい標識であり、だいたいの荒野の住人は手にしている。
だって試してみないとわからないもんね。
僕の零細You Tubeチャンネルも、Foveon回はコメントが多い。
しかもほとんど外国人、Foveonが如何に荒野の住人を虜にしているかの証左であろう。

fpの魔力②時代性への回帰

気づけばfpを購入してからというもの、新しいカメラやレンズを買い、さらに写真関連本や写真集まで手にするものだから一向に貯金通帳の数字が変わらない。バグだろうか?
写真を学んでいくことは、真理の追求の追求項目の追加であり、追求とはすなわち「試してみてえ」という欲求の喚起である。

fpを手にした時、すでにオールドレンズ母艦となっていた。
ライカMの沈胴50mmちゃんとライカRの50mmちゃん、これはすでに手にしていた。fp購入への誘いの原因の一つがその前のフィルムカメラ耽溺によるものだからだ。
拡張性の高いfpだからこそ、ライカのオールドレンズが楽しめる。
それはライカの歴史を楽しむものであり、歴史的写真家の足跡を逆行して辿る標識でもある。
故に僕はLeica summilux 35mm 2ndを買った。いわゆる気づいたら生えてたというやつである。
荒野住人(沼人)の共通感覚である「生えてた」は、「試してみてえ」と「時代性」の混合による化学変化のために起こる現象だ。
時代性は中平卓馬の著作に見られる時代に求められる写真ではなく、時代にたまたま合致したイメージであり、写真の流行り廃りは時代性に起因し、消費され、大衆化し、陳腐化する。
だがこの時代性とは、エポックメイキングであり、荒野住人としてはぜひ体験してみたいのである。
故にライカの35mmは必要不可欠なのだ、歴史的なスナップシューター御用達の35mmという画角こそライカでなければならず、35mmといえばライカなのである。
スティーブン・ショアの時代性へ回帰していた僕は、35mmの世界観で違法建築を開始した。

そして完成した違法建築がこちらである。
ライカ35mm、50mmを付けたfpと中判フィルムカメラにより撮られたこの違法建築は、どこに発表するわけもなくひっそりとネットの海に投棄された「開かれた世界」である。
fpを手にしてから、もはや世間一般的な評価など気にしないのである。
時代性への回帰=古典の再現でもあり、歴史的な写真家の模倣により訪れる自己の内省的血路からやってきたエゴ、それをネットの海に放つことで僕のアイデンティティはより禍々しく狂気へと至るのである。

そしてSIGMA 20mm f2 dg dn、超広角の世界。
「試してみてえ」で未開の超広角に足を踏み入れたわけだが、当初からやりたかったのが6×6フォーマット〜仮設Hasselblad SWCである。
Hasselblad SWCというイカれた超広角フィルムカメラを駆使してすんごい写真を撮りまくっているリー・フリードランダーの時代性に憑依するために、fpの設定でアスペクト比1:1にして20mmで撮影することで仮設Hasselblad SWCの誕生である。
リー・フリードランダーになるために、レヴィ=ストロースのようなブリコラージュ、まさに構造主義である。
こういった時代性の体験のために、レンズがぽんぽん必要になる。
だがこれもミニマムでオールドレンズ母艦として最適なfpの為せる業のおかげなのだ。

そして極めつけはPENTAX 645Dである。
何を言っているのかわからねーと思うが、fpという最先端のデザインからなる禅の境地を知ったあとで、この破壊の鉄球(※ドラクエ)のようなマキシマリストカメラを手にした。
これもfpによる真理の追求への拡がりの所以である。
真理の追求は行ったり来たりではない。アメーバが広がるように、首を奪われたシシ神様がのたまうように、ありとあらゆる方向へ拡がっていくのだ。
デカい、メカシャッター、ファインダー、fpが排除した機能に時代性が宿ったのである。

すべてはアレック・ソスのせいだ。
だがfpにより体験した撮影行為への没入のためのミニマリズムへのアンチテーゼとしてのアレック・ソスのアナログな取り組み=8×10フィルム撮影
そこに「重いカメラじゃないと撮れない写真」を見出した。
重く、手間のかかる作業を経て一枚の写真を撮る。
それも機能性を唾棄して得る超高画質で。
そこに宿るのは、一写入魂。ノイジーでストレスフルなエゴの極致を知ったのである。
10年以上前のCCDセンサーの中判デジタルカメラという地雷物件を手にする様は、これまた10年近く前のFoveonカメラや数十年前のライカレンズを手にするのと同じである。

結局の所、アイデンティティの喪失を埋め直すためには、歴史を知り、先人たちの試行錯誤を知り、そして今ある景色の理由を探る作業が必要となる。
写真というメディアは、絵画の伝統を受け継ぎ、記録と表現のベクトルを保有し、そして生活のツールという市民権を得た巨大なメディアである。
その中でふと自分の立っている土台は何なのだろうか?何を撮っているのだろうか?何を撮らされているのだろうか?
fpによりそんな懐疑主義者にされてしまうと、写真というメディアのすべてを知らなければ落ち着かなくなってしまう。
これが時代性への回帰である。荒野の住人が古いカメラやレンズを追い求めるのは、その物質的価値だけではなく、その時代性を手に入れる行為であり、残念ながら写真はそれができるのだ。半世紀前の時代性が中古カメラ屋で普通に買えるのが写真なのだ。
だがその過程に終わりはない。

fpがもたらす世界に終わりはあるのか?

いつものように長ったらしく講釈を垂れたが、要するにfpとはなんぞや?
それは写真の開かれた世界をこじ開け、自由の荒野に取り残され、アイデンティティを再構築する羽目になる永劫回帰に囚われるということだ。
これほど哲学的なカメラが他にあるだろうか?
fpは不要不急の最低限の機能と削ぎ落とされたデザイン、そして無限の拡張性を抱く。
そこには閉じられた消費のスパイラルとしてのカメラの姿はなく、それでいて開かれたが故に終わりのない世界が訪れる。
消費のスパイラルとしてのカメラは、新機能を持ったカメラが出れば役目を終える。
だがfpはそうではない。
fpは映える写真や流行の写真を撮るのには適していない。
刹那的な現時点での時代性に消費されるのではなく、時代性に囚われないからこそ廃れない。副作用として時代性への回帰に悩まされるが。
自由な荒野を渡されて、人はどう思うのだろうか?
fpをポンと渡されて「それ」を理解できる人は少ないだろう。
だがfpにもてあそばれている人々は、皆アイデンティティの再構築を楽しんでいる。
そこに終わりはないが、始まりはあるのである。
そして我々はFoveonのフルサイズセンサーを待ちわびるのである。


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