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リー・フリードランダーの構図を意識しながら撮ってみた。

リー・フリードランダー、アメリカの写真家
おそらくこの半世紀で五本の指に入る影響力のある写真家と言っても、異論は少ないだろう。
セルフポートレートで有名だが、今回はリー・フリードランダーの構図を意識してみることにする。
2B Channelの解説を見て、こりゃすごいと思い、ネット古本屋を探しまくって数ヶ月。ついに手にした写真集は嫁さんには言えないお値段。

リー・フリードランダー中期の35mmモノクロストリートスナップの特徴は、写真のあらゆるところを分断する線である。
写真の教科書的には、異端な主張の強い分断。
これにより、写真の中にいくつものフレームが生まれる。
これの何が良いのかよくわからなかったが、撮ってみて気づいた。
写真が冷静にうるさくなるのだ。


こういった大胆なぶつ切りも好んで撮られる

一見ごちゃごちゃしそうな雑多な景色を、平面的かつ意識的に分断することで「うるさい」中に理路整然とした区分け、一種の規律が生まれる。


構図を区分けする線と線が垂直、もしくは水平、またはちょうどよい斜線であり、それが一種の数学的納得感を与えてくれる。
これが規律だ。
だがそこには写真的なルールが守られていないカオスがある。
この矛盾こそが、リー・フリードランダーの写真を見入ってしまう原因なのではなかろうか?


そしてセルフポートレート。
自分の姿や影を平面的に撮る。
人や建物やガラスに映る自分の姿や影を撮る行為、これも撮影するという意識的な行為を恣意的に撮るということで、1枚の写真に二重の意識的な空間を凝縮している。
だから自分が写ることには技術的に納得がいくのであるが、そこに自分を撮った撮影者の意図に納得がいかないので、結局矛盾が生じる。
なんせリー・フリードランダーのセルフポートレートは無表情、まるで撮られることを意識していないような顔だ。自分で撮っているくせに!
そして他人の背中に写る自分の影や、ガラスに映る撮影する自分の姿、どれも違和感を生じさせるがそれをストリートスナップ的に撮っているのである。


リー・フリードランダーの絶妙な構図とは、規律の中にカオスを閉じ込めることで、1枚の写真に多層的な構造を生んでいるのである。
それを平然とスナップで撮る、これは神業である。
例えば、これを大判カメラで三脚をしっかり置いて撮ったのではこの規律の中の矛盾は生まれない。
意図せず、意識せず、しかし矛盾を含んでいる。この微妙な感覚の陥るゆるやかな傾斜を、リー・フリードランダーは写真にすることができるのである。


これがまたいざ撮ってみると難しい。
景色の中に強い線を探して歩くなんてことはしたことがない。
さらにその中に規律と矛盾を同時に閉じ込めなければならない。
規律は数学であり、矛盾は感情だ。


それを一瞬の判断で撮るわけだから、リー・フリードランダーはそんな矛盾をニヒリスティックに楽しめる感覚の持ち主だったのであろう。
たしかに彼の写真はどこか無機質で冷笑的だ。


リー・フリードランダーの写真は、1枚の写真というフレームの中で縛られた我々をせせら笑っている。
彼は四角い紙の中に立体的な空間を自由気ままに閉じ込めることができる。
写真はあるがままの世界を記録するだけでなく、自分の目で見ている世界を無理矢理記録することもできる。
同じ人間でありながら、世界の見方は違う・・・ということを意識せざるを得ない。
そう考えると、また世界は一段と広大で訳がわからないものになる。
自分が縛られた規律とは、所詮その程度のものなのだ。


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鉄人
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