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来年の事を言えば鬼が笑う

 未来を語ることはある種の滑稽さを秘めている。未来を語る前に、まずはこのことを認めたい。つまり、この記事は未来を語る自分というものを自虐するものとなっている。

 結論として「私は未来予測をしたいのではない。未来への欲望を語りたいのだ」ということが伝われば良いと思っている。

もう外れた(かもしれない)未来予測

 未来予測は中々当たらないものである。専門家ですらそうなのだから、いわんや素人をや。まずはこのことを紹介していければと思う。ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』(2011)より、少しばかり引用してみよう。

 しかし、情報化時代にかんしてなされた予言のなかには、派手にはずれたものもあった。たとえば多くの未来学者は、「オフィスのペーパーレス化」が一般化する、つまりコンピュータのおかげで紙が使われなくなると予言していた。実際には反対のことが起きた。どこのオフィスを見ても、紙の量が実は以前より増えていることがわかる。
「無人の街」を予想した人もいた。未来学者は、インターネットによるテレビ会議で直接顔を合わせなくてよくなるから、通勤が不要になると予言した。それどころか、人々がオフィスではなく自宅で働くようになると、街そのものがほぼ空っぽになってゴーストタウン化するとも言った。
※太字は水石。

 著者を責めている訳ではない。未来予測は外れることもあるという話をしたいだけである。正直に言えば、パンデミックさえ起らなければ、引用した未来予測も当たっていたのではないかと思う。(※)

 我々はここから一つの教訓を得る。「人間社会が擾乱を受ければ、その未来も変わってくる」ということだ。当たり前のことであるが、想定するのは難しい。

※日本において緊急事態宣言自体は一時的なものであった。この視点に立てば、引用された予測はたしかに外れてはいない。今後の状況次第では、(パンデミックが解消するかにかかわらず、)パンデミック以前と同程度に人々が外に出るようになるかもしれない。つまり、引用した予言は当たるかもしれない。(良いか、悪いかは別にして。)
 もちろん、この本は良い本である。一部の科学技術についても実現に向かって着々と進歩している。

 では、未来予測をすることに意味がないのか? 私はそうは思わない。というよりも、そう思いたくない。

未来を語るということ

 たとえ予測が外れるとしても、私は未来への展望を言いたい。正確には「未来への欲望」と言った方がいいかもしれない。自分の言った展望が実現されたとして、果たして人類は幸福になるのか。それが分からないからである。新しい科学技術を運用してみると、人類が予想だにしない出来事が起こるからである。

 それでも私は未来のことを語っていきたいと思う。素人ながら人類の未来を良くすることを願って。今のところ、私が人類に貢献できることはこれしかないのだ。(これですら貢献できていないのかもしれないが。)

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